日本人の物語00279【平安前期】道真死す
道真は家を去るに当たり、
「東風(こち)吹かば 匂ひ起こせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
と詠みました。東から吹く風よ、都から九州まで梅の匂いを運んでほしいということですね。
道真はこうして大宰権帥として九州の大宰府に赴任しました。
「大宰帥」は大宰府の長官という意味で、「大宰権帥」とは長官代理という意味ですから、普通に考えれば大宰府のナンバー2ということになります。しかし、普通は「帥」がいないときに「権帥」が任命されて職務を代行するものであるところ、道真が権帥となったときには長官たる「帥」がいました。
長官がいるのに長官代理を別途置くということは慣例に反する人事です。要するに、道真には仕事を与えないという醍醐天皇の意思表示なのですね。
道真がいなくなって、藤原時平の治世が始まりました。醍醐天皇と時平による改革の試みを見ていきましょう。
延喜2(902)年3月13日、延喜の荘園整理令が出されました。荘園の増大によって税収が激減している現状を受けて出されたものです。主な内容は、
・寛平9(897)年以降に開かれた勅旨田を廃止する。
・地方民が寺社や有力貴族に田畑を寄進することを禁止する。
というものでした。ただし、「成立の由来がはっきりしていて国務の妨げにならない荘園は整理の対象外」としたため、実効性の乏しい施策となってしまいました。
この荘園整理令は、財政の建て直しを試みたものでしたが、そもそも人口の虚偽申告が多すぎて、荘園対策だけでは財政の建て直しは不可能なのです。その証拠に、延喜2(902)年の阿波国のある村の戸籍は「男59人、女376人」となっています。税負担の軽減のために女を多くして虚偽申告をしているのが明らかですね。
財政再建のため、醍醐天皇はさらなる施策として倹約を奨励しますが、これがなかなか浸透しませんでした。
ある日、時平が立派な装束を着て参内し、醍醐天皇からお叱りを受けたことがありました。
これに対して時平は恐懼(きょうく)し、しばらく謹慎しました。これによって、世間でもようやく倹約ムードが高まってきました。
後に、この話は時平と醍醐天皇が計って行った芝居であったことが明かされました。時平も醍醐天皇も、道真を葬った悪役とされ、現代での評判は芳しくありませんが、それぞれ政務への思い入れや工夫ぶりは評価すべきものがありますね。
延喜3(903)年2月25日。道真は大宰府にて死去しました。多くの人が期待していた復権はかないませんでした。
この後、都で次々と凶事が起こり、道真の怨霊の仕業ではないかと恐れられることになるのです。
