日本人の物語00235【奈良】蝦夷征討 桃生城襲撃
さて、井上皇后の事件と並び、光仁天皇が在位中に最も頭を悩ませたのは蝦夷(えみし又はえぞ)の問題でした。蝦夷とは東北に住む住民に対する蔑称で、「征討」とは悪人を討つという意味ですから、「蝦夷を征討する」などというのは完全に朝廷側から見た一方的な表現なのですが、歴史書では「蝦夷征討」と書かれていて他に適当な表現もないので、本稿ではこの表現をそのまま使っていきます。
宝亀5(774)年1月20日。それまで朝廷に帰属し、朝貢(ちょうこう:貢ぎ物)をしていた蝦夷が、突然朝貢を停止しました。「今後は朝廷には従わない」という意思表示です。
この時期、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)という豪族が陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍を兼任し、東北からの租税を取りまとめる役割を担っていました。その駿河麻呂が都に奏状を提出し、従わない者たちを征討すべきか否か、光仁天皇に裁断を求めたところ、光仁天皇は「民を苦しめたくない」として、征討をしないことに決しました。しかし、駿河麻呂が引き続き征討の必要性を強く訴えたため、7月23日、光仁天皇はやむなしと判断して征討を許可します。
その2日後の7月25日、蝦夷は武力による反乱を開始します。蝦夷は政府軍が進軍できないよう橋を焼いて道を塞ぎ、政府方の拠点である桃生城(ものうじょう:宮城県石巻市)を襲撃してきました。
8月2日、朝廷は坂東八国に対し、「いつでも兵を派遣できるよう準備せよ」との命令を下しました。いよいよ武力討伐というわけです。
ところが8月24日、駿河麻呂から朝廷におかしな奏状が届きました。それは
「蝦夷の反乱は、犬や鼠などの小獣が悪さをした程度の事件に過ぎません。大きな害は出ていないので、武力討伐は必要ありません」
と、蝦夷征討の中止を求めるものでした。
この奏状を読んだ光仁天皇は、駿河麻呂の豹変に怒りました。一体、駿河麻呂に何があったのでしょうか。豹変の理由は不明です。
光仁天皇の怒りを知った駿河麻呂は、やむなく武力討伐を開始します。
9月、駿河麻呂は蝦夷たちが住む遠山村(宮城県登米市)に進攻して、この制圧に成功しました。この蝦夷征討の功績に対する褒賞として、駿河麻呂は宝亀6(775)年9月に参議に任命されました。
当初は戦闘に消極的だったはずの駿河麻呂は、恩賞に味をしめたのか、宝亀7(776)年1月末、「陸奥国軍2万人を動員してさらに大規模な蝦夷征討を行いたい」との計画を申請してきました。朝廷は2月6日にこれを承認しました。
ただし、駿河麻呂はこの直後に死去したので、蝦夷征討の仕事は陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ:?~780)に引き継がれることとなります。
