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日本人の物語01460【室町/西国/大乱前夜】貞成の冤罪④簒奪疑惑

貞成親王の冤罪シリーズ第四弾です。いろんな冤罪を吹っ掛けられてきたものです。

 多少時系列を乱してしまいましたが、文安元(1444)年以降の①近江、②加賀、③美濃、④播磨、⑤大和⑥肥前の6ヶ国の内乱について見て来ました。国によっては享徳3(1454)年まで時代を進めてしまいましたが、ここからは文安元(1444)年に戻って、中央政府の動きを見ていきましょう。
 伏見宮貞成親王には2人の男子がいました。長男が後花園天皇で、次男は伏見宮貞常王(ふしみのみやさだつねおう:1426~1474)です。長男が思わぬ経緯で皇位を継承したことから、次男が伏見宮家を継ぐこととなります。
 文安2(1445)年3月16日。その貞常王の元服式が行われました。この元服式に合わせて親王宣下も予定されていましたが、直前に突然中止との連絡がきて、貞成親王は猛抗議しました。もちろん後花園天皇の決裁は既に通っており、中止となった原因も分からないというのです。
 貞成親王の抗議によって、5月20日に万里小路時房と松木宗豊(まつきむねとよ)が勅使として派遣されてきました。貞成親王は必死に何らかの事情を訴えたらしく、その結果、6月7日に広橋兼郷と白川雅兼(しらかわまさかね)が追放されたと記録されています。原因は「荒説」「云口」(つまりデマ・中傷)だというのです。
 貞成親王の日記は妙に口が重く、一体何が起こったのか分からないのですが、歴史家の小川剛生氏はこう推測しています。つまり広橋・白川が
「貞成が後花園天皇を退位させて、貞常を即位させようとしている」
との噂を流したのです。宮中で
「そのような計画に乗ってはならない」
との議論がなされ、貞常王への親王宣下は直前に中止となりました。貞成親王が必死に無実を訴えた結果、それが認められ、逆に噂を流した広橋・白川が追放されたというわけです。
 どうやら宮中では未だに崇光流と後光厳流の争いがあり、後光厳流も一定程度の勢力を持っていたようです。貞成親王にとっては実に4度目の冤罪事件であり、つくづく運のない人だと思われます。
 広橋兼郷は流罪になるところを日野重子の口添えにより洛外追放で済みました。問題が解決した後の6月27日に、ようやく貞常王への親王宣下が行われました。貞成親王も胸をなで下ろしたことでしょう。
 なお、現在の皇室には未婚の男子が一人しかおらず、「戦後間もない頃に臣籍降下した旧宮家の男子を皇室に復帰させてはどうか」との議論がなされています。もし実現すれば伏見宮貞常親王の子孫が初めて皇位に就く可能性が出てくるわけで、貞成親王が知ったら何とも複雑な思いに駆られることでしょう。

皇室復帰案のニュースが出るたびに伏見宮貞成親王のことを思い出します。

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