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日本人の物語01320【室町/義持期】京都御扶持衆との対決

戦国時代の関連書籍は大量に発行されているのですが、この時期に言及した本はひどく少ないです。実は戦国時代の到来に重要な影響を与えた時期と思われるのですがね。

 応永30(1423)年7月5日。管領・畠山満家邸に、満済のほか重臣たち(細川満元・斯波義淳・山名時熙・赤松義則・一色義貫・今川範政)が集まりました。将軍義持は不在ですが、義持の提案を皆で協議しようというのです。ちなみに重臣といえば他に大内盛見がいますが、この日は病欠だったようです。
 義持からの諮問は
・持氏に対して子細を問う使者を派遣すると以前決定したが、持氏が既に出陣してしまった今となっては無意味であり、中止してはどうか
・常陸国において反持氏派を形成している山入・大掾・真壁らを積極的に援助してはどうか
というものでした。この義持案を諸大名は支持し、そのまま決定されました。
 ちなみにここで名前の挙がった山入・大掾・真壁のように、鎌倉府の管轄内(関東12ヶ国)で活動していながら幕府の意を受けて動く武将のことを「京都御扶持衆(ごぶちしゅう)」と呼びます。京都から扶持(給与)をもらっているという意味であり、現代の歴史家が作った用語のようです。
 注意すべきは、幕府は未だ「持氏討伐令」を出していません。また、京から直接討伐軍を派遣してもいません。あくまでも東国内で持氏に反対する勢力を支援しているに過ぎないのです。義持としては軍を派遣してひねりつぶしたい気持ちだったでしょうが、諸大名の反発が予想されたので、ワンクッション置いてやや穏当な案で諮問したのでしょう。
 1週間後の7月13日、義持は次の一手として
「関東を討つために軍を派遣する」
との案を提議しましたが、一同はこれを否決しました。やはり有力守護たちは全面戦争には及び腰なようです。
 義持はさらに持氏を包囲するべく、下野守護に結城光秀(ゆうきみつひで)を任命し、もはや持氏に守護の任命権はないことを内外に示しました。とはいえこれは姿勢を示したに過ぎず、下野国には持氏が任命した結城基光(ゆうきもとみつ:1349~1430)が守護として君臨していたため、光秀は下野国に入ることすら叶わなかったと思われます。
 幕府方がここまで持氏を追い詰めたにもかかわらず、東国にはまだ持氏の味方が一定程度いたようです。7月に常陸国に入った持氏は、「京都御扶持衆」の面々を次々と撃破していきました。さらに8月中には小栗城(茨城県筑西市)と真壁城(茨城県桜川市)を陥落させ、小栗満重を自害に追い込みました。

義持はまだまだ独裁者になり切れていないようですね。有力守護たちにはまだ将軍の決定に反対できる発言権があるようです。

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