日本人の物語00503【平安末期】重衡と千手の前
一ノ谷の戦いが終わり、寿永3(1184)年2月10日、後白河法皇は屋島に撤退した平家軍に対して書状を送りました。そこには、
「頼朝は重衡を死罪にせよと言っている。しかし三種の神器を返せば、重衡の罪は許そう」
と書いてありました。生け捕りとなった重衡を人質に、三種の神器の返還を迫ったというわけです。
その書状には、重衡自身が書いた母・時子への手紙が添えてありました。手紙には、
「もう一度私の姿を見たいなら、神器を返すよう兄(宗盛)に伝えてください」
と書いてありました。
時子は息子可愛さのあまり、宗盛に神器の返還を懇願しますが、宗盛は応じませんでした。
これは宗盛の判断が正解でしょう。神器と安徳天皇が平家側にいるからこそ対等に交渉や合戦ができるのであって、もし神器が相手の手に渡ったならばもはや滅亡は免れないでしょう。
宗盛から拒絶の返書が都に届きました。重衡は強制されたとはいえ、母を取り乱させる手紙を書いたことを深く後悔しました。
重衡は都を引き回された後、鎌倉に護送され詮議を受けることとなりました。恐らく待っているのは死刑のほかにないでしょう。重衡は「鎌倉に行く前に受戒して仏道に帰依したい」と願い出て、これが許されました。監禁場所であった八条堀川の御堂までやって来て重衡に授戒してくれたのは、後に浄土宗を開くことで知られる法然(ほうねん:1133~1212)でした。
重衡が「寺を焼き払ったことは自分の意志ではなかったが、責任は全て私一人で負いたい」と述べると、法然は涙を流して十戒を授けたといわれています。
3月28日に、鎌倉に護送された重衡は頼朝と対面しました。頼朝が
「南都炎上は清盛の命か、それともお前の独断か」
と尋ねたところ、重衡は「炎上は思いもよらぬ結果であった」と述べつつ、
「私の首を早々に刎ねられよ」
と全責任を取ることを堂々と受け入れ、源氏一門は「あっぱれ大将軍よ」と重衡を称賛しました。
頼朝は重衡を、敵ながら手厚く遇することとしました。4月20日には管弦の宴を催し、その席で千手の前(せんじゅのまえ:1165~1188)という政子付きの女房に琴を披露させました。その見事な琴を聞いた重衡は、あわせて琵琶を合奏し、
「この東国の地にかくも優雅な女房がおわすとは」
と感激したといいます。千手の前もまた、教養深い重衡に心惹かれたようです。しかし、既に死刑の決まっている罪人との恋は、当然ながら悲しい結末を迎えることとなります。
