日本人の物語00170【飛鳥】天皇記と国記の編纂
さて、推古天皇16(608)年9月返書を持参した使者、裴世清が隋に帰国するに当たって、小野妹子が再び隋に送られることとなりました。2度目の渡航です。
このとき同時に留学生として隋に旅立つのが、
・南淵請安(みなぶちのしょうあん)
・高向玄理(たかむこのくろまろ:?~654)
・旻(みん:?~653)
の3名でした。実際には随員なども多数いたと考えられますが、正規の使節として選ばれたのがこの3名です。
推古天皇17(609)年9月。渡航していた小野妹子が帰国しました。しかし旻、南淵請安、高向玄理の3名は隋に残り、彼ら3名が帰国したのは何と隋が滅亡した後のことでした。
旻が帰国したのは舒明天皇4(632)年、南淵請安と高向玄理が帰国したのは舒明天皇12(640)年です。南淵請安と高向玄理に至っては、30年以上に及ぶ長い長い留学でした。留学中の618年に隋が滅亡し、唐が誕生しましたが、遣隋使たちは一体どうやってこの政変を乗り切ったのでしょうね。
さて、彼ら遣隋使たちが命懸けで隋の最新の情報を持ち帰ってきたことは、政治的にも文化的にも様々な変革を起こしたと考えられます。
法隆寺の仏教美術にも大いに影響を与えたことでしょう。また、推古天皇28(620)年に歴史書『天皇記』『国記』が編纂されたことも、遣隋使たちの影響と考えられます。隋に留学した人たちが帰国してきて、他国の文化を知ったことで
「歴史書くらい作らないと国家として認めてもらえないぞ」
ということに気づいたのでしょう。
おそらく、『天皇記』というのが天皇家の歴史を記したもので、天皇が皇后に対して詠んだ歌などプライベートなことも含めて記録を残したものでしょう。その後の『古事記』の原型となったと考えられます。
一方、『国記』というのが、公式歴史書として倭国の歴史を記したものでしょう。その後の『日本書紀』の原型となったと考えられます。
これらが残っていれば、日本最古の歴史書となり、古墳時代の多くの事績が明らかになっていたのでしょうが、残念ながら、乙巳の変の際に蘇我蝦夷が焼却してしまったため、現存していません。
