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日本人の物語01629【室町/西国/六角征伐】斯波義廉のその後

織田家の話になると、一体信長はいつ登場するのかとやきもきされるかもしれませんね笑。登場するのはまだまだ先です。

 続いて、尾張における守護斯波家と守護代織田家の情勢を見ていきましょう。
 応仁の乱で争っていた斯波義敏・斯波義廉がいずれも没落し、越前を朝倉氏に、遠江を甲斐氏に事実上奪われた旨は既にお話ししました。義敏・義廉にとって残されたのは尾張だけで、下記のような対立構図になっていたのでしたね。
東幕府: 斯波義敏・織田大和守敏定 @清洲城(愛知県清須市)
西幕府: 斯波義廉・織田伊勢守敏広 @下津城→国府宮(いずれも愛知県稲沢市)
 文明7(1475)年11月の戦いで西軍方が勝利し、東軍方を尾張から駆逐したのでした。敗北した織田敏定は、京に潜伏していたようです。
 しかしその後、応仁の乱が事実上東軍方の勝利という形で終結したことで、西軍方は尾張を不法占拠している状態となってしまいました。
 はて、東軍と西軍は和睦したわけだから、これで尾張での対立も終わるのではないかと思われるかもしれません。しかし乱終結の際、大内を始めとする西軍諸大名は在京していて、正式に幕府と和睦を結んだのに対し、斯波義廉は尾張にいて和睦を締結していなかったのです。つまり西軍方の斯波義廉とそれに従う織田敏広は引き続き幕府の敵という扱いであり、鎮圧の対象なのです。
 文明10(1478)年9月9日には幕府から正式に、
「(西軍方の)織田敏広の守護代職を更迭し、(東軍方の)織田敏定を新たな守護代に任ずる」
との命令が下りました。義廉がかくも追い詰められてしまった原因は、宿敵である義敏が幕府内で巧妙に立ち回ったせいでもあるでしょう。
 在京していた織田敏定は、幕府から「尾張凶徒の退治」を命じられて下国し、清洲城に入城しました。この「尾張凶徒」が斯波義廉と織田敏広を指すことは明らかでした。
 さらに義廉・敏広にとって悪いことに、幕府は元西軍である美濃の土岐成頼・斎藤妙椿に対して織田敏定を支援するよう命じていました。同じ西軍同士で味方だったはずの土岐家・斎藤家が敵になってしまったのです。特に妙椿は自らの養女を織田敏広に嫁がせており、その同盟は強固でしたから、その敏広を討てとの命令にはひどく悩んだことでしょう。
 「凶徒」とみなされた斯波義廉は、尾張での支持勢力を全て失って没落していきました。斯波義廉のその後の消息は不明で、没年すら明らかではありません。一時期は管領まで務めた人物がかくも没落するとは珍しい事例です。
 一方、もう一人の「凶徒」である織田敏広は新たに岩倉城(愛知県岩倉市)を築いてまだまだ戦い続けます。ここからは斯波家を差し置いて守護代の織田家同士の戦いが続きます。

もう斯波家より織田家の方が存在感がある状態になってきました。

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