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日本人の物語01312【室町/義持期】対馬問題解決

事態は解決したものの、どうも真相がよく分からないままで気持ち悪いお話です。

 前述のとおり、義持と世宗の関係は良好に推移していたものの、それとは別に対馬守護・宗貞盛と太宗の交渉は極めて難しい状況にありました。
 応永27(1420)年閏1月15日。世宗は義持への返礼の使者として、宋希璟(そうきけい:1376~1446)を日本に送り出しました。あの貴重な大蔵経をもって日本へ向かうわけです。宋希璟は対馬・太宗間の交渉とは無関係な人物のはずでしたが、思わぬ形で対馬属州化問題に関わることとなります。
 2月28日。宋希璟は立ち寄り先の対馬で、まだ若い宗貞盛に代わって実務を取り仕切っている早田左衛門太郎(そうださえもんたろう:?~1428)から会見を申し込まれました。これに応じたところ、早田は
「対馬を朝鮮国の属州とする話が進んでいるようだが、これは使者が独断で話したことであり、対馬としては承知していない」
と主張し、宋希璟を驚かせました。
 日本側の史料によると、宋希璟の態度は極めて紳士的で、
「そうだと分かれば、太宗は無理に対馬を属州にしようとはなさらないだろう。その件については本国に帰って太宗の指示を仰ぐこととしよう」
と表明したといいます。宋希璟はもちろんこの後義持と接見する予定があったわけですが、対馬属州化が義持との間で話題になることは辛うじて避けられました。
 それにしても、時応界都が勝手に対馬属州化を認めたというのはおかしな話です。偽の使者だったのか、はたまた宗貞盛は本気で朝鮮国の下に入ろうと考え、後になって考えを変えたのか、真相は藪の中です。
 4月16日。宋希璟は兵庫港に到着し、様々なもてなしを受けた後、6月16日に義持に謁見しました。義持も念願の大蔵経を手にすることができ、ご機嫌だったことでしょう。7月22日に宋希璟は帰国の途につき、10月に報告を受けた太宗は対馬属州化を諦めたとされます。
 その後、朝鮮国が対馬の領有権を求めた記録はありません。朝鮮側の史料によると、翌応永28(1421)年4月7日に宗貞盛の使者・仇里安(きゅうりあん)が漢城にやって来て、
「時応界都の述べたことは妄言である。対馬への攻撃は日本本国への攻撃と同義である。ゆえに朝鮮との通交の可否については、ちゃんと義持様の了解を得た上で行っている」
と述べ、対馬が日本領であることを強く主張したといいます。
 結局、朝鮮国は対馬の属州化について意外にあっさりと諦めました。元々、太宗の発言は「倭寇の取締りを怠ると属州化も検討するぞ」という趣旨の脅しであって、本気で領有しようとまでは考えていなかったのかもしれません。
 ともあれ、日本と対馬でバラバラに行っていた朝鮮外交は、ここでやっと一元化したといえます。

対馬も壱岐も行ってみたいのですが、一体何泊すれば回り切れるのでしょうね。

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