日本人の物語01178【南北朝末期】春日神木事件 興福寺の強訴
最近、古い大河ドラマを見返しているのですが、ドラマの演出の仕方が昔と今とでは大きく違うので、若干見づらいですね。
建徳2/応安4(1371)年冬から、朝廷と幕府はそれぞれ宗教勢力との戦いに明け暮れることとなります。
まず細川頼之はかねてより春屋妙葩との関係修復を図ろうと、何度も訪ねては南禅寺住持への就任を打診していたのですが、拒絶され続けていました。やむなく頼之は夢窓疎石の別の門弟・龍湫周澤(りゅうしゅうしゅうたく:1308~1388)を南禅寺住持に据えました。
とはいえ、頼之は春屋妙葩との和解を諦めたわけではなく、その後も隠遁先を訪問し続けました。ところが11月、春屋妙葩は隠遁先から姿を消し、阿波国光勝院(徳島家鳴門市)へと移り住み、その後は丹波国雲門寺(京都府舞鶴市)へと逃亡します。
頼之は怒って春屋妙葩の一派に属する全員の僧籍を剥奪しました。いつも冷静な頼之らしくない判断です。その結果、春屋派の僧侶たちは京を捨てて逃亡し、禅宗の寺院の多くが無人と化してしまい、前関白・近衛道嗣(このえみちつぐ:1333~1387)が日記に
「天龍寺以下、既にもって空虚と云々」
と記すような状況となりましたが、頼之は春屋派に属さない僧たちを呼びつけることで寺院の運営を再開させました。これまた実に強硬な態度であり、頼之らしくありません。
頼之はいわば禅宗を敵に回してしまったわけで、これは禅宗と結びついた有力守護たちをも敵に回したことを意味します。こうした態度が、後に頼之政権の命を縮めてしまうこととなります。
さらに12月2日には、旧寺社勢力である興福寺が再び朝廷に牙を剥きました。興福寺の僧兵が春日神木を奉じて入洛し、六条殿にこれを安置したのです。
そもそも藤原氏の氏寺は興福寺であり、氏社は春日大社です。つまり興福寺は藤原氏のために存在するはずなのですが、平安中期以降、事あるごとに藤原氏に対して牙を剥く厄介な存在となっていました。
春日神木は藤原氏の祖先らの魂を宿した霊験あらたかな神木であり、誰も触れることのできないものです。僧兵らがこれを持ち出して京の六条殿に安置したということは、そこで執務をとることができなくなるわけです。明らかに、12月19日に予定されていた大嘗会(だいじょうえ:後円融天皇の即位式)を妨害する目的でした。
延暦寺が歴代天皇の魂が宿る「神與」を持っているのと同様に、興福寺は「春日神木」という武器を持っているわけですね。
では、興福寺の僧兵たちはなぜ朝廷への嫌がらせを行ったのでしょうか。それを説明するには、興福寺の塔頭(たっちゅう:付属の寺院)である大乗院と一乗院の対立から書き起こす必要があります。
