日本人の物語00365【平安中期】71代後三条天皇
治暦4(1068)年4月17日。皇太后禎子を太皇太后に、中宮・章子内親王を皇太后に、皇后・藤原寛子を中宮に、女御・藤原歓子(ふじわらのよしこ:1021~1102)を皇后にするとの詔が出されました。藤原歓子とは、藤原頼通の弟である教通(のりみち:996~1075)の娘です。「皇太后」とは多くの場合、天皇の母(前天皇の配偶者)を指す言葉ですので、後冷泉天皇の正室である章子が皇太后になるのはおかしな気もしますが、后のポストが4つしかないので、仕方なかったのでしょう。
ちなみに、章子も寛子も歓子も後冷泉天皇の正室であり、1人の帝に3人の正室がいたのは歴史上後冷泉天皇だけです。
この前日に、藤原頼通は関白の座を弟の教通に譲っていました。しかし教通が道長のように最高権力者となることはありませんでした。ここから藤原氏は没落の一途を辿ることとなります。
同年4月19日。後冷泉天皇が崩御し、尊仁親王が即位しました。後三条天皇です。
後三条天皇の父母と外祖父は次のとおりです。
・父 後朱雀天皇
・母 禎子内親王
・外祖父 三条天皇(故人)
藤原氏を外祖父に持たない天皇は、宇多天皇以来実に170年ぶりのこととなります。藤原氏の没落を象徴する出来事と言っていいでしょう。
一体藤原氏はなぜ没落したのでしょう。
道長は4人の娘を天皇に嫁がせ、男子を産ませ、その男子が天皇位に就くことによって、道長は外祖父の座に就くことができました。それが、道長が権力を得る手段だったのです。
ところが、頼通には同じことが実行できませんでした。というのも、頼通の子は7人いるのですが、その内訳はなんと6男1女。女子は寛子のみだったのです。何とも不運としか言いようがありません。
寛子は後冷泉天皇に嫁ぎましたが、子を産むことはありませんでした。「娘を天皇に嫁がせ、男子を産ませる」というこれまでの戦略がうまくいかなかったわけですね。
いってみれば、藤原氏による摂関政治の基盤は、
「自分は女子をもうけなければならない。その女子は男子をもうけなければならない」
という偶然性に頼る面が大きかったのですね。そりゃ長続きしないでしょうね。
さて、後三条天皇の時代以降は、天皇・上皇が絶大な権力を持ち始めます。藤原氏というタガが外れ、天皇・上皇は好き勝手に政務を切り盛りしていくようになります。
