日本人の物語01005【南北朝前期】直義、南朝に降る
「室町幕府内で失脚した幹部が南朝に降る」という習慣はここから始まりました。最初の例が直義ですが、これ以降似たようなことが10回くらい起こります。
直義の反逆が全国に広がったことによって、尊氏政権はかなりの苦境に立たされました。ここから、いよいよ直義のまさかの「禁じ手」をお話ししなければなりません。それはなんと、南朝と手を組むことでした。
正平5/観応元/貞和6(1350)年12月9日。直義が吉野の南朝に送った書状は次のようなものでした。
「元弘の初め、先帝(後醍醐天皇)が逆臣のために皇居を西海(隠岐諸島のこと)に移されたとき、勅命に応じて兵を起こした者たちは数多くおりました。ある者は敵に囲まれ、あるいは戦に負けて志を失いましたが、私は兄・尊氏に帝に従うことを勧めました。このことは、先帝のお心に叶う行動だったと思います。
その後、新田義貞らの讒言によって、罪もないのに先帝のお怒りを受ける身となり、我々は帝と離れ離れになりました。足利一門が朝敵となったことは、嘆いても余りあるところです。
私の罪は実に重いと思っておりますが、もし帝のご恩で罪をお許しいただけるならば、私は罪を陳謝して、直ちに天下の大乱を鎮める所存です」
これはまさに「降参」の書状です。直義は南朝と同盟を組もうとしているわけですが、そのために「降参」という形式を取ったのでした。
吉野の南朝では、さっそく公家たちが参内して、これをどう受け止めるべきか議論がなされました。洞院実世は、
「直義の話には大きな偽りがある。師直・師泰に都を追い出され、身の置き所がないからというだけの理由で、帝の権威を借りようとしているだけだ。この20年近く、我々が都から遠く離れて空しく過ごしているのは、全て直義のせいではないか。直義が降参するというのであれば、この機会に処罰すればよい。速やかに討手を派遣して、直義の首を皇居の門前にさらすべきだ」
と述べました。幕府の中心人物は尊氏ではなく直義とみる意見です。
一方、二条師基はこう述べます。
「自分の罪を謝る者は、かえって二心なく忠義貞節を尽くすのではないか。直義がこちらに来るならば、帝が天下を取り返すことにつながるだろう。元弘時代の昔の功績に免じて、直義を官職に戻して召し使うのが良いであろう」
洞院実世と二条師基。二人の意見のうち、どちらが通るのでしょうか。
