日本人の物語01298【室町/義持期】上杉禅秀の乱 禅秀勝利
「上杉禅秀の乱」は一応高校日本史の教科書には出てくるのですが、単に上杉禅秀という人物が足利持氏と険悪になって起こした反乱だ、という程度に思っていました。これほどの規模の事件だったとは、今回の連載のために勉強して初めて知った次第です。
後世に「上杉禅秀の乱」と呼ばれる事件について説明していますが、既に述べてきたとおり、将軍の弟や管領の関与が明らかとなっており、禅秀だけのクーデター計画ではありません。もっと大きな話です。
しかし将軍義持としては、関係者を全員処罰できるかどうかは極めて厳しい状況です。細川・斯波・赤松をまとめて葬ろうとすると、返り討ちに遭う可能性もあります。
応永23(1416)年12月15日。義持と管領・細川満元らが何らかの協議をしたとの記録があります。内容は分かりませんが、おそらく今回の乱をどう収束させるかについて、丁々発止の議論がなされたものと思われます。
翌12月16日には、義嗣一派に属する日野持光が延暦寺と興福寺を決起に誘う書状が発見されました。これに伴い義嗣の処遇は、比較的緩い軟禁状態だったのが牢座敷に移動させられました。もはや義嗣の処分は免れません。
京で義嗣一味の処分が検討されている頃、東国でも持氏方の反攻が始まっていました。12月18日には上野国で山内上杉憲基が挙兵して岩松氏を破り、南下を開始します。12月23日には持氏自身が駿河守護・今川範政とともに東進を開始しました。
12月25日、持氏方の二階堂氏盛(にかいどううじもり)が入間河(埼玉県狭山市)で犬懸上杉憲方(いぬがけうえすぎのりかた)の軍を破りました。ちなみに上杉憲方というと応永元(1394)年に死去した関東管領が有名ですが、ここに登場した犬懸上杉憲方は禅秀の息子であり別人です。
持氏自身も、河村城(神奈川県山北町)を出発して相模川を突破し、12月末には懐嶋(ふところじま:神奈川県茅ヶ崎市)に布陣し、鎌倉攻略の準備にかかりました。
年明けとともに持氏は先遣隊・一色直兼(いっしきなおかね:?~1438)を藤沢に送り込みました。応永24(1417)年1月初旬の藤沢の戦いで一色勢は禅秀方に敗北し、北走して二階堂氏盛と合流を図りますが、1月5日、飯田原(横浜市泉区)で追撃してきた禅秀に追いつかれ、またもや敗北してしまいます。一色勢を救援すべく二階堂も南下してきましたが、世谷原(横浜市瀬谷区)の戦いでこれまた禅秀に敗れました。
禅秀方はなかなかの強さです。前年10月の決起から3ヶ月、順調に味方を増やしていたようですね。東国の諸大名らは「どうやら幕府が禅秀のクーデターを認めてくれそうだ」と思い、禅秀に味方したのでしょう。
しかし幕府が禅秀討伐を決めたとの情報に接すると、徐々に禅秀の形勢は悪化していきます。
入間河という地名が出てくるので、ここは当然現在の埼玉県入間市だろうと思ったら、どうやら狭山市内のようです。現在の地名と一致しないケースがあってなかなか難しいですね。
