見出し画像

日本人の物語00885【建武期】北朝2代光明天皇

 京の尊氏と比叡山の後醍醐天皇との戦いは決着がつかなかったわけですが、その後戦闘もないままずるずると数ヶ月が過ぎました。
 その間、尊氏の滞在する京では光厳上皇とその弟・豊仁親王が足利方に守られながら御所で暮らしていました。
 ここで後醍醐天皇が天皇位にあることを否定して、別の天皇を立てようというのは足利方にとって当然の発想かもしれません。後醍醐天皇が登場する以前は、天皇よりも上皇が治天の君として政務を統括するのが常識でしたから、足利家は光厳上皇を治天の君と仰いで、その弟の豊仁親王を天皇に即位させようと考えました。
 延元元/建武3(1336)年8月15日、豊仁親王が即位し、光明天皇となりました。とはいえ、三種の神器は後醍醐天皇が比叡山に持ち去ってしまっていますから、光厳上皇の院宣による即位です。神器なき即位は後鳥羽天皇、光厳天皇に続く3例目ということになります。
 この光明天皇は後に北朝の2代目と位置付けられるのですが、その詳細は後述します。
 なお、光厳上皇と尊氏は後醍醐天皇が「延元」に改元したことを否認し、「建武」を使い続けました。「建武」もまた後醍醐天皇が用いた元号ですが、尊氏は後醍醐天皇が即位した事実や、昨年までの事績をも否定するつもりはなく、あくまで尊氏征討の綸旨を出した以降の後醍醐天皇のみを否定したかったのですね。
 この2日後の8月17日、尊氏は清水寺に自筆の願文を納めました。それが現存しているのですが、実に不思議な内容です。
「この世は夢のようなものです。尊氏は出家したいので、来世でのお救いをお願いいたします。早く世を捨てたいものです。出家するので、現世での幸福は要りませんから来世でどうかお救いください。現世での幸福は直義にお与えください。直義をどうかお守りください。建武三年八月十七日」
 同じ言葉が反復されている上、文字も徐々に小さくなって消え入りそうです。後醍醐天皇方との戦いは有利に進んでおり、自らの手で光明天皇を即位させ、得意の絶頂にあってもおかしくない状況だというのに、尊氏はひたすら出家したいと呟いているのです。
 どうやら尊氏は、本気で後醍醐天皇に心酔しており、後醍醐天皇と戦い続けることや別の天皇を擁立してしまったことに罪の意識を感じているようです。行動と考えとがひどく乖離しているように思えますが、後醍醐天皇との戦いは直義や家臣たちが主導していて、尊氏はその統領に祭り上げられているだけなのかもしれません。何ともおかしなリーダーです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集