日本人の物語01204【南北朝最末期】九州、幕府の手に落ちる
九州の戦局が大きく動きます。九州の南朝方は、圧倒的な強さを誇る菊池武光が死去したことで凋落してしまったようです。
東国で第二次小山義政の乱が続いていた頃、九州では今川方の快進撃が続いていました。特に了俊の命を受けた禰寝久清の活躍にはめざましいものがありました。
・天授6/康暦2(1380)年10月: 禰寝久清が鷹栖城(鹿児島県鹿屋市高須)を陥落させる。
・天授7/永徳元(1381)年6月: 禰寝久清が佐多氏義(さたうじよし)の守る佐多城(鹿児島県南大隅町)を陥落させる。
どうやら了俊は、薩摩・大隅方面と肥後・日向方面の両方と同時に戦うのは難しいことから、薩摩・大隅方面を禰寝氏に任せ、自らは肥後・日向勢との戦いに集中するという作戦を取っているようです。
了俊自身も大活躍を見せていました。天授7/永徳元(1381)年初頭には菊池氏の居城・菊池城を陥落させ、懐良・良成両親王を染土城(熊本県菊池市)へと追い込みました。了俊はさらに菊池三家老の一つである隈部氏の居城・隈部城(熊本県山鹿市)をも陥落させました。
6月には染土城も陥落したため、両親王は菊池武朝とともに宇土城(熊本県宇土市)に逃亡しました。南朝軍は徐々に南下を強いられていきます。
この頃、懐良親王は既に死去していたか又は重病だったらしく、発給文書は良成親王の名によるものばかりです。菊池武光がいた頃は向かうところ敵なしだった九州南朝軍は、もはやかつての勢いを完全に失ったようです。追い詰められた良成親王と菊池武朝は、宇土城へ落ち延びた後もなお放浪生活を続けるのですが、その詳細は追って説明することになるでしょう。
同じ6月、了俊は日向でも善戦しています。都城(宮崎県都城市)を包囲し、島津氏久を降伏させたのです。氏久の降伏は二度目です。
ところが島津氏久の降伏はまたもや偽りでした。了俊が都城の包囲を解くと、島津は再び了俊に敵対し始めたのです。了俊は禰寝久清宛ての書状で
「我々が弱いところを見せると、島津はすぐに寝返るようだ」
と愚痴っていますが、同じ手に何度もかかる了俊は余程甘い人物のようです。
ともあれ、一時は南朝に制圧されていた九州は、了俊の活躍によって70%程度が幕府方の手に回復したこととなります。南朝方はもはや虫の息なのですが、戦いはまだまだ続きます。
