見出し画像

日本人の物語00547【鎌倉初期】奥州合戦 白河の関

 文治5(1189)年7月29日。頼朝一行は、下野・陸奥国境(栃木・福島県境)の白河の関を通過しました。
 旧暦で7月末といえば初秋です。頼朝は梶原景季に
「能因法師の歌を思い出さないか」
と問いかけました。
 能因(のういん:988~1050)とは平安中期の歌人です。彼の最も有名なエピソードが『古今著聞集』に記載されたもので、
「都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」
(春霞の季節に都を出発したが、旅を続けて白河の関に着く頃には秋風が吹いていた)
という歌を作ったのを、「都にいながらこの歌を発表するのはもったいない」と思って、人に隠れて自宅内に籠もり、庭で日光にあたって肌を黒く焼いてから、
「東北に修行に行ったついでに詠んだ歌なんですよ」
と言いながら披露したというのです。なかなかの変わり者ですね。
 頼朝が「初秋の白河の関といえば、この歌を思い出す」と述べたのに対して、景季は
「秋風に 草木の露を 払わせて 君が越ゆれば 関守も無し」
(秋風の中、露を払って君主(頼朝)が関を越えていこうとしたので、関守も恐れをなしていなくなったのだ)
と即興で詠みました。
 この白河の関は東北と関東を分ける境界であり、つまり頼朝の勢力圏と奥州藤原氏の勢力圏の境界でもあるのです。狭い山道ですので、泰衡としては頼朝軍をここで迎え討つのが有効だと思われるのですが、頼朝軍は何らの抵抗も受けずにここを通過してしまうのです。おそらく一同は拍子抜けしたでしょうが、景季は白河を守る敵将がいなかったことを
「頼朝に恐れをなしたためであろう」
とこじつけて詠んだというわけです。
 ちなみに白河の関は、その後鎌倉時代のうちに消滅し、長らくその場所が不明となっていました。江戸時代に白河藩主の松平定信(まつだいらさだのぶ:1759~1829)がその場所を特定し、記念碑を建て、現在は国指定史跡となっています。
 白河の関は東北・関東間を行き来する際に通る場所なので、多くの伝承が語り継がれています。義経が平泉から鎌倉に向かう途中、戦勝を占うために矢を射立てたという「矢立の松」や、戦勝祈願のために源氏の旗を立てかけたという「旗立の桜」などが残っています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集