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日本人の物語01688【戦国/東国/長享の乱】道灌の和歌

早く昭和史を書きたくてうずうずしているのですが、それは15年後くらいになりそうです。

 約30年に渡って続いた享徳の乱を終わらせたという功績を残しながら、主君に謀殺されるという悲劇的な最期を遂げた道灌は、その後神格化されていきました。
 最も有名な山吹の伝説については既に紹介しましたが、そのエピソードによって道灌は和歌の名手として持ち上げられるようになりました。江戸時代に編纂された『小田原北条記』では、道灌がなんと後土御門天皇と歌を詠み合ったとの話が記録されています。
 それによると、寛正6/享徳14(1465)年3月に道灌は将軍義政に拝謁するため上洛したといいます。そのとき内裏にも参上し、後土御門天皇から
「そなたはきっと都鳥のことを知っていよう」
とのお言葉がありました。言うまでもなく、武蔵国を旅した在原業平の
「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが恋ふ人は ありやなしやと」
を意識して洒落こんだ言葉です(00270回参照)。
 これに対して道灌は即興で
「年を経て 未だ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」
と詠みました。道灌は隅田川沿いに長年住んでいるけれども、未だ都鳥を見たことがないと答えたわけです。
 この答えに感心した天皇は
「武蔵野は 茅原(かやはら)の野と 聞きつるに かかる言葉の 花もあるかな」
と詠み、花も咲かない茅が生い茂るだけと聞いていた武蔵国に、このような風流を解する人物がいるとは、と驚いたといいます。
 さて、道灌は幕府の重臣でも何でもなく、関東を治める鎌倉府のナンバー2の関東管領家の、その分家の扇谷上杉家の家宰に過ぎません。正五位下の位階に叙されているとはいえ、さすがに天皇との対面はできなかったと思われます。また、「未だ都鳥を見たことがありません」という歌は特段上手いわけでもなく、天皇を唸らせるレベルのものとは思えません。つまりこのエピソードは明らかに嘘くさいのですが、このような話が作られるほどに江戸時代における道灌人気はすさまじいものだったようです。
 ちなみに『小田原北条記』では、道灌殺害は扇谷上杉定正の独断ではなく、山内上杉顕定からの働きかけによって行われたものと記されています。原文には
「顕定は長年扇谷を滅ぼそうと思っていたが、道灌が控えていてはできない相談である。そこで顕定は定正に使いを送り、『道灌はお互いの家にとって邪魔者です。早くお討ちなさい』と述べた。定正がこの顕定の謀り事に乗せられたのは実に愚かなことであった」
とあり、道灌を殺した顕定と定正を非道の主君と位置付けているのです。

仕事で言問通りを渡ったときに上司が「言問通りって、何か謂れがありそうな名前だな」と言ったので在原業平の「名にし負はば」の歌を説明したところ、「君、教養あるねぇー」と言われました。自慢話です。

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