見出し画像

日本人の物語00188【飛鳥】近江大津宮遷都

 白村江の戦いに敗北したことで、中大兄皇子は政治的に窮地に立たされることとなりました。
 大化の改新で権力を奪われたことで、豪族たちは新政権に対してただでさえ不満を持っていました。その上、中大兄皇子が周囲の反対を押し切って対外戦争を始め、しかも負けたわけです。負け戦に駆り出されたことによって、豪族の不満はますます増大していきます。
 中大兄皇子としては、ここで何とかして政権を安定させなければなりません。
 天智天皇3(664)年2月9日。中大兄皇子は、弟の大海人皇子に命じて、冠位二十六階を作らせました。これは従来よりも冠位をきめ細かに規定し、身分の低い豪族に対しても冠位を与えやすくして、豪族の不満を解消するためのものだったそうです。
 同年、部曲(かきべ)の一部復活を許可しました。部曲とは、大化の改新によって禁止された豪族の私有民のことです。公地公民制を後退させることとなりますが、これも豪族の不満を解消するためにやむを得ないものでした。
 こうして豪族の反逆を防止しようとしたのですが、中大兄皇子にとってそれ以上に恐ろしいのは、唐・新羅からの報復でした。
 同年5月17日。唐の韓土総督である劉仁願(りゅうじんがん)という人物が、倭国に使者を派遣してきました。中大兄皇子はこの使者・郭務悰(かくむそう)を手厚くもてなし、今後戦う意志がないことを示しました。
 この年、中大兄皇子は、対馬・壱岐・筑紫に烽(とぶひ)を設置しました。緊急時にのろしを上げて急を知らせる施設のことです。また、九州防備の防人(さきもり)を増員し、防備を強化しました。さらに、対馬と筑紫に朝鮮式山城を築くとともに、筑紫には水城(堤防)を作り、いざというときは水が満ちる仕掛けを作っています。敵が水によって溺死する仕掛けということでしょう。
 天智天皇6(667)年3月19日。中大兄皇子は、都を近江大津宮(滋賀県大津市)に遷しました。大津は湖と山に囲まれ、防衛しやすい地形であるから選んだと考えられます。ところが、大津遷都の評判はかんばしくありませんでした。豪族としては、やはり住み慣れた飛鳥を離れたくなかったようです。
 額田王は、飛鳥を発って大津に向かう際、
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや」
と詠みました。最後のお別れなのに、雲が三輪山を隠していることを嘆いたのです。
 中大兄皇子は、飛鳥に留守司を置いて政務に当たらせるとともに、時折飛鳥に戻るなどして豪族の不満を抑えました。
 結果的に唐・新羅は倭国に攻め寄せてくることはありませんでした。しかし、当時の人々がいかにそれを恐れていたかは察するに余りあります。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集