日本人の物語01335【室町/義持期】赤松満祐下国事件
赤松氏研究の専門家で渡邊大門氏という方がおられるのですが、その著書『赤松氏五代』などを大いに参考にしました。渡邊大門氏はどちらかというと一般向けの入門書やウェブ記事を多く書かれている方ですが、赤松氏関係については専門書も出版されています。
応永34(1427)年には、赤松家の所領をめぐる争いが起こります。
9月21日に赤松家当主の義則が死去しました。本来ならば義則が危篤となった時点で、嫡子の満祐(みつすけ:1381~1441)が将軍に宛てて家督と播磨・備前・美作を継承する許可を申請すべきところでしたが、あいにく義持は伊勢神宮参詣のため不在でした。このとき満祐が速やかに領国を継承できなかったことがトラブルを生むことになります。
さて、この後重要人物となる赤松満祐が初登場しました。ここで満祐の人物像について紹介しておきましょう。
満祐はその背丈の低さから「三尺入道」などと呼ばれ、蔑まれていたと記録されています。三尺というと120cm程度であり、低身長症だった可能性もあります。
満祐のエピソードとして、こんな話があります。満祐が東寺の傍を通ったとき、壁越しに見えた松の木の枝振りが美しかったので、満祐は使者を送ってこの松を譲ってほしいと所望しました。東寺で協議した結果、赤松家が幕府の重職にあることを考慮し、やむなく譲ることとしました。満祐は代金を支払ってはいるものの、寺にある木を私邸に移すなど当時の常識では考えられぬことで、満祐の横暴ぶりが話題になったというのです。とはいえ、無理やり枝を切り去った高師直や土岐頼遠と比べれば可愛いものだと思います。
さて、満祐の家督継承を阻んだのは将軍義持でした。10月26日、清和院に参籠中の義持が、東山龍徳寺で仏事を営んでいた満祐に使者を派遣し、とんでもないことを伝達してきました。
「備前・美作の継承は認めるが、播磨については幕府直轄の御料国として、しばらく近習の赤松持貞(あかまつもちさだ:?~1427)に預けおく」
というのです。赤松持貞は赤松家の分家筋で、義持の近習です。
義持は先代の赤松義則が義満の側近だったことを盾に何かと大きな態度を取ることに怒っていた上、近習の赤松持貞をひどく可愛がっていたようです。だからといって、播磨国の継承を認めないのはあまりにひどいイジメと言えます。赤松満祐は何度も撤回を求めますが、義持が聞く耳を持たないため、なんと館に火を放って播磨に下国していきました。自分の館に火を放つのは「もう京には戻らない」という意志表示です。
10月27日。義持は
「満祐には2ヶ国も残っているのに、かくなる行為をするとは短慮である。残る備前・美作も赤松庶家の満弘(みつひろ)と貞村(さだむら:1393~1447)に分け与え、満祐は討伐せよ」
と命令しました。自分から赤松家に喧嘩を売っておいて、成敗しようというのです。赤松家は無事に済むのでしょうか。
赤松満祐は小学生の頃読んだ小学館版『まんが日本の歴史』で特に印象に残った人物でした。私は満祐に同情してしまいます。
