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日本人の物語00572【鎌倉前期】大姫入内工作 丹後局との交渉

 上洛中の建久6(1195)年3月29日、頼朝は丹後局と土御門通親を六波羅に招き、政子・大姫と引き合わせ、豪奢な贈り物を進呈しました。
 丹後局は後白河法皇が晩年をともに過ごした女御で、当時朝廷内の影の権力者でした。元々は高階家の出身で高階栄子と呼ばれており、法皇の側近・平業房(たいらのなりふさ:?~1180)の妻でしたが、夫の死後、栄子は法皇に急接近します。法皇もまた、愛する側室・建春門院滋子を失ったばかりであり、栄子の存在は法皇の孤独を癒やすものでした。
 栄子は後白河法皇と間に第6皇女・宣陽門院覲子(せんようもんいんきんし:1181~1252)をもうけ、「丹後局」と呼ばれるようになりました。
 九条兼実は日記『玉葉』において、丹後局のことを
「朝務は偏にかの唇吻にあり(政治は彼女の唇ひとつで左右されてしまう)」
と愚痴っているほどで、それほど彼女の美貌は法皇を惑わせていたのでしょう。
 後白河法皇が崩御すると、丹後局は法皇保有の広大な荘園「長講堂領」を我が子・覲子に相続させました。この相続はかなり強引だったらしく、多くの公家が反発したといいます。
 このような癖の強い丹後局ですが、法皇崩御後には土御門通親とタッグを組むこととなります。この土御門通親もまた、非常に癖のある人物なのです。
 土御門通親は村上源氏の一族です。村上源氏とは、村上天皇の子が臣籍降下して源氏を名乗ったもので、頼朝たち清和源氏とは異なります。いずれにせよ源氏なので「源通親」と呼ぶこともありますが、土御門に邸宅を持ったために「土御門通親」と呼称することもあります。さらに通親の子の代から久我(こが)の地に居を構えたので、研究者によっては「久我通親」と呼ぶケースもあります。
 ちなみに昭和期に活躍した女優・久我美子は、この久我家の子孫です。久我美子は本名で「こがはるこ」と読むのですが、誰も正しく読んでくれず「くがよしこ」と読んでしまうので、それをそのまま芸名としたそうです。
 通親は時の権力者に取り入って出世栄達をもくろむ権力欲旺盛な人物でした。尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母である藤原範子(ふじわらののりこ:1152~1200)は、夫・能円(のうえん:1140~1199)と死別していましたが、尊成親王が後鳥羽天皇として即位するや否や、通親は範子に接近し、結婚を申し込みました。言うまでもなく、後鳥羽天皇の義理の乳父の地位を得るためです。
 頼朝は九条兼実との縁を切って、この老獪な二人を朝廷の窓口に設定してしまったのでした。

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