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日本人の物語01528【室町/東国/享徳の乱】雪合戦と暗殺劇

謎のタイトルになってしまいましたが、この謎が解けておらず、気持ち悪い状況です。

 上杉方の内紛が続いていますが、成氏方でもキナ臭い事件が起こっています。寛正3/享徳11(1462)年12月29日に、下総結城家の結城成朝が死去したのですが、その死因をめぐって妙な噂が流れたようなのです。
 『結城系図』には
「家臣たちが遊興のついでに『雪打論』と号して殺害したらしいとの噂が流れた」
との記述があり、『結城家之記』にも
「家臣の多賀谷朝経(たがやともつね)が、大雪のときに『雪打』に擬して成朝を殺した」
との記述があります。どうやら「雪打ち」に見せかけた意図的な殺害だったようなのですが、肝心の「雪打ち」が何なのか分かっていません。雪合戦のような遊びではないかといわれていますが、24歳の成朝が楽しむようなものなのでしょうか。
 ちなみにここに登場した多賀谷朝経は、関東管領憲忠を殺害した実行犯でもあります。享徳の乱勃発時には当主・成朝は16歳でしたから、結城家を事実上取り仕切っていたのは多賀谷だったのでしょう。成朝が徐々に成長して自ら実権を握ろうとしたのが邪魔になったのかもしれません。
 しかし多賀谷のこうした行動は、当然周囲の理解を得られる訳もなく、これ以降は結城家庶流の山川景貞(やまかわかげさだ)が結城家を取り仕切るようになりました。山川景貞の主導により、子の山川基景(やまかわもとかげ)が結城家当主となりましたが、早世したため、今度は成朝の甥に当たる結城氏広(ゆうきうじひろ:1451~1481)が当主を継ぐこととなります。
 さて、視点を五十子の陣に転じます。享徳の乱が始まって9年目の寛正4/享徳12(1463)年8月26日、上杉方の中心人物であった長尾景仲が死去しました。76歳の長寿でした。長尾家は子の景信(かげのぶ:1413~1473)が継ぎますが、父ほどの存在感は発揮できなかったようです。
 山内上杉房顕は腹心の景仲を失った上に、政知との関係悪化に悩んだ挙句、10月に関東管領辞任を申し出ました。成氏との戦いは間もなく10年目に入ろうとしており、全く終わる気配を見せません(それどころかあと20年続きます)。その上、上杉方の三浦時高(みうらときたか:1416~1494)や大森実頼(おおもりさねより:?~1483?)が謀反を疑われたことに憤慨して隠居を申し出るなど、五十子の陣は大いに揉めていました。房顕ならずとも、辞任したくなる気持ちは理解できます。
 結局、将軍義政に慰留されて辞任は叶わずじまいでしたが、上杉方の面々は徐々に戦意を喪失していきました。

「雪打ち」を巡っては怪談を創作できそうですね。

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