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日本人の物語00826【建武期】西園寺公宗の謀反 暗殺計画

 後醍醐政権への不信は止まりません。建武2(1335)年6月22日、今度は西園寺公宗、日野資名らが、あろうことか鎌倉幕府の残党・北条泰家と組んで天皇暗殺を計画していたことが発覚しました。発覚の端緒は、公宗の弟・公重(きんしげ:1317~1367)の密告によるものでした。
 西園寺公宗といえば当初は後醍醐派の公卿でしたが、後醍醐天皇が笠置に逃亡した後はすっかり幕府の手先となって動いていた人物です。幕府が滅びたことで政権内の居場所を失っていたのでしょう。幕府再興を目指して活動したくなる気持ちは理解できます。
 ちなみに西園寺公宗の従妹に、珣子内親王(たまこないしんのう:1311~1337)という後醍醐天皇の側室がいました。珣子内親王は後伏見上皇と西園寺寧子(さいおんじやすこ:1292~1357)の間に産まれた子であり、彼女が後醍醐天皇の側室となったことは、凋落しつつある西園寺家にとって希望の光でした。というのも、ここで珣子内親王が男子を産んでくれれば、西園寺の血を引く天皇が誕生するかもしれないわけです。
 珣子内親王の出産は、西園寺家のみならず朝廷全体にとっても注目の的だったでしょう。というのも、ここに男子が産まれれは後伏見上皇(持明院統)の孫であり、後醍醐天皇(大覚寺統)の子でもあるわけですから、もし天皇に即位できれば持明院統と大覚寺統の雪解けも図れたかもしれず、南北朝時代は到来せずに済んだかもしれません。その後の歴史が大きく変わってきた可能性があるのです。
 ところが周囲の期待に反して、産まれてきたのは女子でした。夢破れた公宗は、もはや後醍醐暗殺のほかには西園寺家を再興する方法はないと考え、謀反を企んだものと考えられます。この謀反事件は珣子内親王の女子出産から僅か3ヶ月後の出来事ですから、このストーリーはあながちあり得ないことではないでしょう。
 公宗が計画したのは、紅葉狩りを名目として後醍醐天皇を北山山荘(後に足利義満が鹿苑寺として整備する場所)に呼び出し、湯殿の脱衣場の床板を踏むと底が抜ける仕掛けを作り、地下に刀を並べておくという、いかにも安っぽいドラマにあるような方法でした。後世の創作だろうという気がします。
 計画は未然に露見してしまい、西園寺公宗と日野資名は逮捕されましたが、北条泰家は既に逃亡しており見つかりませんでした。
 8月2日。西園寺公宗は出雲配流と決まりました。しかし思わぬ形で公宗は命をも失うこととなるのです。

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