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日本人の物語01589【室町/西国/応仁の乱】斯波義敏の凋落

斯波氏の国だった越前が、ほぼ朝倉氏のものになった瞬間を描きます。

 文明7(1475)年は、斯波家の運命が大きく動いた年でした。斯波家といえば、三管領筆頭にして越前・尾張・遠江などを領する守護ですが、東軍・義敏と西軍・義廉に分裂して争っているうちに西軍義廉の有力家臣・朝倉孝景の存在感がいやでも増し、細川勝元が
「東軍に寝返ってくれるなら越前守護職を授けてもよい」
などと言ったおかげで、斯波義敏・義寛父子は東軍内で居場所を失いつつありました。
 その後、越前国内では東軍に寝返った朝倉孝景と西軍方の甲斐敏光が争っていましたが、文明7(1475)年2月、甲斐敏光が斯波義寛の説得を受けて遂に東軍方に降伏し、将軍義政に謁見しました。甲斐氏は本来越前国に土着する守護代でしたが、義政は甲斐敏光に遠江守護代の職を与えました。越前を領する朝倉氏への遠慮からでしょう。
 幕府の支持を得た朝倉孝景に逆らう者は、越前国内では犬山城(福井県大野市)の二宮氏だけになりました。2月14日、孝景は家臣の印牧広次(かねまきひろつぐ)を犬山城に派遣し、夜討ちをかけて見事陥落させました。二宮氏は土橋城(どばしじょう:福井県大野市)に逃げ込みます。
 孝景は次に土橋城を落とすべく作戦を練っていましたが、驚きの出来事がありました。4月10日夜、主君の斯波義敏が二宮氏に加担するべく、突如として土橋城に駆け込んでしまったのです。主君による家臣への「裏切り」に孝景はひどく困惑しました。
 斯波義敏からみると、一家臣に過ぎない孝景が幕府に重用され、越前守護職を乗っ取られかねない状況が大いに不満だったのでしょう。とはいえ、幕府に反逆する二宮氏の側につくとは、あまりの番狂わせでした。
 義敏の父である斯波持種(しばもちたね:1413~1475)は、息子の凋落を憂慮しつつ7月16日に病死しました。孝景は義敏が喪に服しているこの機に乗じて、7月23日に土橋城の軍勢を場外におびき出し、次々と討ち取りました。
 敗色濃厚となった義敏に対し、10月19日には義政から「城を出よ」という降伏勧告のような御内書が発出されました。義敏はやむなく12月3日に城を出て、不本意にも孝景の手で身柄を京に送られました。義敏は家臣である朝倉孝景の武力と政治力に屈したのでした。
 主君義敏を失った二宮氏は国外に逃れ、かくして孝景による越前支配は完成しました。
 「孝景が越前守護に任命された」との説は近年では否定されているものの、事実上守護と同じ権限を行使していることは間違いありません。また孝景は、領国内に「朝倉孝景条々」と呼ばれる法令を発出しており(実際にはもっと後の時代ではないかとの説もあります)、これは戦国大名が作った法令「分国法」の先駆けとして知られています。
 いずれにせよ、一介の国人から国の事実上のトップに上り詰めた孝景は、下剋上の先駆けだったといえます。

朝倉孝景は主君である斯波義敏を追放したわけですが、将軍の協力があったのですから厳密には下剋上とは言えない、との考え方もあるようです。

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