日本人の物語01347【室町/義教期】正長の土一揆 証文破棄
高校で「酒屋・土倉が金融業者である」と習ったのですが、その理由がよく分かっていませんでした。どうやら本業は酒屋だったら倉庫保管業だったりするのが、片手間に金融業も営むようになり、やがてそっちが本業になってしまったようですね。
応永33(1426)年5月、酒屋による麹造りがストップした影響で、米が余って米価が大暴落しました。
酒屋は金融業で儲けているのでまだどうにかなるのですが、ひどく困窮したのは米の運搬で儲けていた運送業者たちでした。彼らは馬を用いて運搬することから「馬借」と呼ばれており、特に延暦寺の庇護を受けてきた近江坂本の馬借たちは、延暦寺の弱腰のために自分たちが損害を被ったことにひどく怒っていました。
馬借たちは、延暦寺が行う「日吉社祭礼」の際、内侍の車を止めて強訴に及びました。この強訴は、幕府が北野社麹座に麹販売を独占させていることへの抗議であるだけでなく、延暦寺と朝廷が共催する祭礼をぶち壊しにすることで延暦寺への抗議の意思も示したものといえるでしょう。さらにこのとき、実現しませんでしたが北野社の襲撃も計画されていたといわれています。
朝廷の顔に泥を塗られた称光天皇は激怒し、当時まだ存命していた義持に対応を指示しました。義持は兵を派遣し、強訴を行った馬借の住宅に放火し、追放処分としました。
正長元(1428)年になって、延暦寺は配下の馬借たちを守るため、麹製造・販売権の独占の是非を巡って北野社を訴えました。酒嫌いの義持も既に死去しており、今なら勝てると思ったのかもしれません。
しかし結果は延暦寺の敗訴でした。馬借たちの望みは完全に断たれました。今や土倉・酒屋からの借金は膨れ上がり、返済の目途が全く立ちません。
9月18日。近江の馬借たちは一斉に蜂起し、土倉・酒屋を襲撃して証文(借用証書)を次々と破棄していきました。せっかく襲うのならば北野社や麹屋を対象とすればいいのに、とも思われますが、歴史学者・清水克行氏は
「本来の意図は北野社を襲って麹の独占を解体させることにあったが、幕府軍に阻止されてしまったため、派生的な行動である土倉・酒屋の襲撃のみが成功したのではないか」
と推理しています。
いずれにせよ、馬借たちは自力で証文を破棄しつつ、その借金帳消しを公的に認めてもらうべく、幕府に対して徳政令の発布を求めました。徳政令は鎌倉時代以来何度も出されており、特に天皇や将軍の代替わりを契機に出されるケースが多いことから、今回も天皇・将軍の代替わりを理由として発布してほしいと主張したのです。
結局、幕府による公式の徳政令は出されなかったものの、馬借らは自力で証文を破棄して借金から逃れることができました。これこそが、今後たびたび起こる一揆の最初の例であり、『大乗院日記目録』に
「日本開闢(かいびゃく)以来、土民の蜂起、是れ始(はじめ)なり」
と記録されたものです。
現代においては、債務者が個別に自己破産を申請して借金から逃れることができますが、政府が「徳政令」を発布して全員の借金を帳消しにするような仕組みは存在しませんね。
