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日本人の物語00409【平安後期】保元の乱 夜討ちの是非

 保元元(1156)年7月10日夜。崇徳上皇方と後白河天皇方、それぞれに兵が集まりました。ここから、戦いの様子を『保元物語』に沿って見ていきましょう。物語を面白くするための誇張はあるでしょうが、史実から大きく逸脱してはいないはずです。
 先に崇徳方が集まった白河北殿(京都市左京区)の状況から見ていきましょう。
 崇徳方の頭脳は、当代きっての学者である藤原頼長です。とはいえ、頼長にも合戦の経験はありません。頼長は誰にともなく「合戦はどのようにすれば良いか」と尋ねました。
 これに答えたのは源為朝です。為朝が
「夜が明けないうちに三方から火をかけて攻めれば良いでしょう」
と、夜討ちを提案すると、頼長は
「為朝は思慮が足りない。夜討ちなどは10騎、20騎の私闘のやり方だ。天皇と上皇が争うのに夜討ちは適当ではない。夜明けを待ってからが良い」
と言って、却下してしまいます。為朝は
「兄・義朝は合戦のやり方を知っている。夜のうちに攻めて来られるのではないか」
と懸念を表明しましたが、それ以上主張することはできませんでした。
 為朝の懸念通り、後白河天皇の居館である高松殿(京都市中京区)では、義朝が崇徳上皇方の集まる白河北殿への奇襲を提案していました。信西がそれに同意します。
 頼長と信西。二人の学才の違いがここに表れているように思えます。二人とも軍学書を読み漁った平安後期を代表する碩学ですが、頼長はあくまで摂関家のエリートで、貴族の美学を重んじるのに対し、信西は弱小貴族から叩き上げでここまで昇進してきた人物ですから、結果を出せれば手段は何でもよいのでしょう。
 ここで義朝は不躾にも「昇殿の許しを得たい」と言い出します。昇殿は原則として三位以上の位階を持つ者又は参議以上の官職を持つ者の特権であり、義朝にまだまだ許されるべきものではありません。
 信西はあまりの不躾な物言いに驚きながらも、
「合戦で力を発揮すれば許しても良い」
と答えました。ところが義朝は、
「戦場で命を捨てるつもりなので今許されなければ意味がない」
と言って、なんと強引に内裏正面の階段を上って、無理やり昇殿したのです。平時にこんなことをすれば打ち首ものです。
 信西は呆れ返りましたが、後白河天皇は機嫌良く笑ったといいます。さすがに後白河は肝が据わっています。

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