日本人の物語01326【室町/義持期】越後守護をめぐる争い
石清水八幡宮は室町幕府にやたらと重視されていました。鎌倉幕府にとっての鶴岡八幡宮と同じ位置付けなのかもですね。
応永31(1424)年6月14日。石清水八幡宮(京都府八幡市)の神人が強訴のため、八幡山上の護国寺に立て籠もる事件が発生しました。八幡宮の社務から要請を受けた義持は、6月19日に諸大名の軍勢を八幡に送り込みましたが、護国寺を攻撃するわけにもいかず、両者の睨み合いが続きます。
しびれを切らした義持は、6月25日、
「護国寺が焼けても構わないから早期に鎮圧せよ」
との指示を出しましたが、諸大名はこれに従わず、結局兵糧攻めとなりました。義持の権威は義満に比べて限定的だったことが分かります。
事件が長引く中、7月8日に神人との交渉を任された管領・畠山満家は、側近の遊佐国盛(ゆさくにもり)を八幡に向かわせました。交渉の末、どうにか事態は解決しましたが、満家はこの事件に疲れ果て、義持に管領辞任を申し出ます。
満家が辞任を希望したのは、在京し続けることの経済的負担に耐え切れなかったためとも言われます。これ以降、満家に限らず管領はたびたび辞任を申し出るようになるので、あまり利益がない一方で負担ばかり大きい役職なのでしょう。
11月26日。畠山満家は突如として、越後応永の乱に介入し始めました。越後応永の乱といえば、幸龍丸を支持する守護代・長尾邦景の勢力と守護・上杉頼方を支持する勢力との争いですが、満家は在京していた幸龍丸を頼方の屋敷から奪い、
「幸龍丸こそが越後上杉家の惣領である」
と宣言し始めたのです。
これまで将軍義持が頼方を支持していたのに、将軍を支えるべき管領が反対勢力を支援し始めた格好です。本来なら義持がこうした動きを止めるべきところ、管領と表立って対立するほどの実力がないのか、黙認せざるを得なかったようです。
12月になると、畠山満家の支援を得た幸龍丸が守護を名乗るようになり、上杉頼方と上杉幸龍丸とが別々に越後守護として恩賞や安堵状を発出する異常事態となりました。
今や、義持と持氏の対立が呼び水となって守護職をめぐる争いが起きている国は、3つに増えました。この機会にまとめておきましょう。
【甲斐守護職】義持方・武田信重VS持氏方・逸見有直VS武田信長方・伊豆千代丸
【常陸守護職】義持方・山入祐義VS持氏方・佐竹義人
【越後守護職】義持方・上杉頼方VS持氏方・上杉幸龍丸
甲斐をめぐっては、義持方でも持氏方でもない第三勢力が存在するのでややこしいですね。とにかく幕府と持氏は和睦はしたものの、未解決の人事問題が山積していたようです。
「幼名を使うのをやめて、最初から元服後の諱を使う」をスタンダートにしようか迷ってます。しかしこの時代の本を読むとほとんどが「幸龍丸」と呼んでいるので、それに倣いたい気もします。うーん。
