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日本人の物語01563【室町/西国/応仁の乱】備後攻略戦

応仁の乱は、代理戦争のような形で地方で起こっていた戦がたくさんあるので、話があちこちに飛んでしまいます。

 ここで少し時間を戻して、応仁の乱と並行して起こっていた各地方の戦乱について見ていきましょう。備後、近江、肥前、出雲の順に紹介していきます。まずは備後からです。
 この時期、安芸と備後の守護に任じられていたのは山名宗全の次男・是豊(これとよ:?~1476)でした。是豊は宗全の子でありながら宗全と折り合いが悪く、応仁の乱では東軍に身を投じてしまいます。
 父との確執の理由はいくつかありますが、
・寛正元(1460)年に兄の教豊(のりとよ:1424~1467)が父と対立して放逐された際、代わりに家督相続を望んだところ却下されたこと
・寛正3(1462)年に細川勝元から命を受けて畠山義就と直接戦ったことがあり、そのため父が「義就と同盟する」と言い出したときに強硬に反対したこと
・寛正5(1464)年に勝元が主導して是豊を山城守護に任命しようとした際、父の反対を押し切ってこれを受諾したこと
などが挙げられます。
 こうした事情から、安芸と備後については西幕府では山名宗全が、東幕府では山名是豊が守護を自称しており、父子で争う構図となっていたのです。
 応仁の乱が始まったとき、安芸は東軍方、備後は西軍方の実効支配下にありました。
 応仁2(1468)年8月。東軍に属する安芸国人である小早川煕平(ひろひら:1416~1473)、吉川元経(きっかわもとつね:1459~1522)が安芸から備後に攻め込んできました。これを迎え討ち、侵攻を防いだのは西軍方の山内豊成(やまのうちとよしげ)です。
 小早川煕平なる人物が初登場したので、ここで小早川氏について紹介しておきましょう。
 かつて鎌倉幕府創設に貢献した土肥実平(00462回参照)は、頼朝から備前・備中・備後の3ヶ国守護に任じられました。さらに実平の子・小早川遠平(こばやかわとおひら:?~1237)は、承久の乱で功績をあげたとして安芸国沼田荘(広島県三原市)を与えられました。
 なぜ実平の子が「小早川」という姓を名乗っていたかというと、土肥氏の主たる領地である土肥郷(神奈川県湯河原町)内の小早川という地に住んでいたからです。小早川というと広島県三原市をイメージする方が多いと思いますが、そのルーツは湯河原なのです。(そのため、現在三原市と湯河原町は友好都市関係を結んでいます。)
 その小早川による備後侵攻が失敗したため、東軍方・山名是豊はテコ入れすべく11月に一時的に下国し、小早川・吉川とともに山内豊成と戦いましたが、これも失敗に終わりました。
 是豊は翌文明元(1469)年2月には山内を破ったものの決定的な打撃を与えるには及ばず、文明2(1470)年には山内方に逆転されてしまいます。

関ヶ原での裏切りで知られる小早川家が初登場しました。しかし関ヶ原まで長いなあ。

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