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日本人の物語01035【南北朝前期】正平の一統

南北朝が一時的に合体した「正平の一統」なんですが、これって一統(統一)されたといえるのでしょうか・・・? ただの詐欺事件のような気がします。

 さて、尊氏によって南朝への降伏の意思が示され、南朝がこれを受け入れたのは正平6/観応2(1351)年10月24日のこと。そして11月2日、南朝は赤松則祐を使者として京に派遣し、北朝との交渉に当たらせました。
 翌11月3日。後村上天皇から尊氏に対して綸旨が出ました。命令は
・元弘一統の時代に回帰せよ。
・直義を追討せよ。
の2点です。尊氏はこの綸旨を持って11月4日に京を出発し、直義追討に出かけたのです。
 何だか解せない話です。そもそも南朝との講和は直義への手土産として行っていたはずなのに、いつの間にか南朝から直義を追討せよとの命令をいただいているわけです。
 南朝方はすっかり調子に乗って、11月7日、北朝の崇光天皇と皇太子・直仁親王を廃する旨の命令を出しました。北朝が使っていた「観応」という元号も廃止され、これをもって幕府方も南朝の元号「正平」を使い始めるようになりました。
 こうして、短期間ではあるものの南北朝は統一されました。これを「正平の一統」といいます。
 尊氏が南朝に降伏すると、当然に北朝の天皇は廃される運命にあるわけですが、尊氏がこのことを天皇や上皇に相談した形跡はありません。かわいそうに、寝耳に水で光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁皇太子はその座を追われてしまったのです。崇光天皇に至っては正平3/貞和4(1348)年に即位して以来、戦乱のため大嘗会(即位式)を行うことができないまま3年が経過していたのですが、結局大嘗会のないまま廃されてしまいました。大嘗会を挙行していない天皇は、仲恭天皇に続き2例目となります。
 南朝による政権奪回が次々と進みます。11月8日には、吉野から四条隆資と洞院実世が執政官として京にやって来ました。このとき、
「光厳・光明両上皇が南朝方に捕らえられるらしい」
との風聞が広まり、両上皇は生きた心地がしなかったでしょう。
 11月24日には南朝方の北畠具忠(きたばたけともただ:?~1352)がやって来て、持明院統の処遇を伝えてきました。「持明院統の領地は今後も認めるので安心されたし」とのことでした。
 そして12月18日、遂に北朝方の三種の神器が没収されることとなりました。南朝方の使者がいうには、
「持明院統の神器は虚器であるが、ぞんざいに扱うべきではないので、我々が預かり置く」
というのです。23日には神器が接収され、新調された唐櫃に入れられて保管されることとなりました。
 もし本当に南朝の神器が本物で、北朝の神器が偽物なのだとしたら、なぜ没収する必要があるのでしょう。怪しい話ですね。

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