日本人の物語00700【鎌倉中期】一遍と時宗
タイトルを見て「時宗(ときむね)」と読んでしまうかもしれませんが、「時宗(じしゅう)」です。
弘安の役の翌年に当たる弘安5(1282)年、踊り念仏を掲げる僧・一遍(いっぺん:1239~1289)が鎌倉に入ろうとして幕府に拒絶される一幕がありました。鎌倉新仏教を開祖した6人(法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍)の最後の一人、時宗を創始した一遍をここで紹介しておきましょう。
一遍は延応元(1239)年に伊予国久米郡(愛媛県松山市)に、御家人・河野通広(かわのみちひろ:?~1263)の子として産まれました。河野氏はかつて有力御家人でしたが、承久の乱で朝廷方について敗れたため勢いを失い、唯一幕府方についた通広の弟・通久(みちひさ)だけが所領を増やすことができました。その通久の孫が、弘安の役で活躍した河野通有です。
一遍は9歳で出家し、天台宗や浄土宗を学びますが、24歳のとき父が死去したため還俗して伊予に帰国しました。僧の道を捨て、武士として生きることにしたのでしょう。
ところが兄弟間での所領争いが生じ、俗世が嫌になった一遍は、文永8(1271)年に32歳で再び出家し、全国を行脚するようになります。
諸国を渡り歩きながら念仏札を配っていた一遍は、弘安2(1279)年に太鼓や鉦(かね)打ち鳴らし、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」を始めます。一遍は踊り念仏について
「念仏が阿弥陀の教えであると聞くと、踊り出したくなる嬉しさである」
と述べています。一遍の踊りは嬉しさを表現したもののようです。
この踊り念仏が話題を呼び、一遍に付き従う者が徐々に増えていきました。彼らは「時衆」と呼ばれますが、この踊りは見世物興業に近いものだったといいます。「踊り屋」と呼ばれる舞台を作って、男女の踊り手が輪になって歌と踊りを披露するというもので、過激な狂乱状態に見えることから保守的な武士や僧たちは大いに反発しました。
一遍は弘安5(1282)年に鎌倉入りを拒絶されますが、その後も西国で精力的な布教を行い、正応2(1289)年に病死しました。16年間の行脚で配った念仏札の数は25万1724個といいます。
全国を旅した一遍の残した歌は、時宗の宗歌として親しまれています。
「旅ころも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ 処あるべき」
(旅衣を着て旅をする私は、木の根もとであれ、かやの根もとであれ、いつどこにでも身を捨てることができる)
一遍の死後は、弟子の他阿(たあ:1237~1319)が時衆を統率し、踊り念仏の流行はやみませんでした。ただし、一遍も他阿も新たな宗派を開創したとの意識はなく、これが「時宗(じしゅう)」と名付けられるのは江戸時代に入ってからのことです。
