日本人の物語01644【室町/西国/六角征伐】松田元成謀反
山名と赤松の間で揺れ動いた松田のお話です。
かつて備前は山名教之が支配し、代官の小鴨大和守(こがもやまとのかみ)を送り込んでいたのですが、赤松政則が山名・小鴨を追放して備前を獲得したという経緯がありました。その際、赤松方に与して最も活躍したのが松田元成でした。赤松政則は松田の功績を称えて伊福(岡山県岡山市)の領地を与えています。松田はそれほどまでに赤松から信頼されていたのです。
ところがその後、松田が赤松から離反し、備前国内の赤松領を次々と押領していったため、赤松政則は怒って文明15(1483)年7月に兵を送り込みました。すると松田は、山名俊豊を味方につけて赤松に対抗し始めました。かつて赤松に味方して山名と戦っていたのに、今度は逆に山名と組んで赤松と戦おうというのです。(ちなみに山名教之と山名俊豊は10親等の遠縁です。)
翌8月、今度は山名家当主の政豊が、息子の俊豊を支援すべく但馬から播磨へと侵攻して来ました。赤松政則は
・西側の松田元成・山名俊豊
・東側の山名政豊
に挟まれてしまったことになります。
赤松政則は西側の戦闘を浦上則国(うらがみのりくに)に任せることとしました。則国は何度か登場した守護代・浦上則宗の子に当たります。則国率いる2千人が福岡城(岡山県瀬戸内市)に立て籠もると、松田元成・山名俊豊連合軍はこの城を包囲してきました。
11月21日、山名俊豊が福岡城に攻め込み、合戦が始まりました。このとき城を守る浦上方に楢村与三兵衛(ならむらよさべえ)・又四郎(またしろう)という兄弟がいたのですが、彼らは以前に松田元成に奉公した縁があったため、松田・山名方に寝返り、11月23日夜、風の激しいタイミングを狙って福岡城の陣屋に火を掛けました。
山名勢はこの放火に呼応して攻め込んだものの、浦上勢の強い抵抗に遭って城攻めを断念しました。後に楢村兄弟の裏切りが発覚し、両者は誅殺されました。
12月13日。今度は浦上則国が福岡城から討って出て、松田元成・山名俊豊連合軍と戦いました。このとき戦死した浦上方の福井小次郎(ふくいこじろう:1459~1483)の話は有名です。
福井小次郎は乱戦のさなかに父とはぐれてしまい、走り回って敵を斬りまくりながら父を探したものの見つからず、そのまま26箇所も手傷を負って遂に戦死しました。
福岡城に帰った父が小次郎の手箱を開いてみると、書き置きの中に、
「生まれこし 親子の契りは いかなれば 同じ世にだに 隔てはつらむ」
(親子に生まれついたのは前世からの契りであるのに、なぜ同じこの世で会えずに終わってしまうのか)
と書いてあるのを見つけ、皆で「覚悟の上の討死のようだ」と惜しんだといいます。
この時代は「○○の戦い」といった名称が付いていない戦乱が多いですね。
