日本人の物語00720【鎌倉後期】貞時死す
応長元(1311)年9月20日。10代執権・北条師時が評定の席で倒れ、2日後に死去しました。36歳でした。
後任人事がなかなか決まらないまま2週間が経過しましたが、10月3日に大仏宗宣が11代執権に就任しました。
大仏宗宣は、北条義時の異母弟・時房の曽孫に当たります。時房といえば承久の乱を義時とともに鎮圧した勇士ですが、その子孫が大仏のある長谷(はせ)に屋敷を構えたことから、「大仏(おさらぎ)」を名乗るようになったと推定されています。
それにしても、「大仏」と書いて「おさらぎ」と読むのはなぜなのでしょうか。一説によると、大仏は更木(さらぎ)から出来ているからだといいますが、よく分かっていないのだそうです。
その翌月、従弟の師時の後を追うように、得宗貞時が病没しました。享年39歳。酒浸りの生活が寿命を縮めたのかもしれません。7歳の高時が得宗を継ぎますが、当然7歳の幼児に政務が担当できるわけもなく、貞時は死に際して内管領・長崎円喜(ながさきえんき:?~1333)と有力御家人・安達時顕(あだちときあき:?~1333)に後事を託しました。円喜は貞時が登用した長崎光綱の子で、時顕は安達泰盛の弟の孫に当たります。
ここから鎌倉幕府の迷走が加速していくこととなります。
そもそも得宗家は代々短命で、後継ぎが幼いうちに当主が死去してしまうケースが多く、息子への政権移譲をどう円滑に行うかが重要な課題でした。
5代時頼は、子の時宗が12歳のときに死去してしまいましたが、赤橋長時・北条政村という非常に良心的で私心を持たない2人が中継ぎとして6代・7代の執権職に就任しました。2人は時頼から受け継いだ政務のノウハウを幼い時宗に教え込み、政権を無事に譲り渡すことができました。
8代時宗も、子の貞時が12歳のときに死去してしまいました。貞時が成長するまでのつなぎを引き受けたのは、平頼綱・安達泰盛の2人でしたが、この2人は険悪で、平頼綱が安達泰盛を滅ぼしてしまい(霜月騒動)、その後頼綱に貞時を後見しようという気はなく、自身の独裁政権を樹立してしまいました。やむなく貞時は頼綱を滅ぼして政権を得宗の手に取り戻しますが(平禅門の乱)、時宗が政務のノウハウを長時・政村から学んだように、貞時が誰かしらから教育を受ける機会は最後まで得られませんでした。それゆえに、貞時の政治は迷走していったのです。
では、貞時から高時への政権移行はどのようになされたのかというと、これが輪をかけてひどい状況なのです。
