日本人の物語01385【室町/義教期】嘉吉の乱 自業自得の果て
嘉吉の乱が描かれた唯一の大河ドラマが平成6(1994)年の『花の乱』です。そこでは、萬屋錦之助演じる山名持豊(宗全)が必死に赤松方と戦っていましたが、実際には本稿で記したとおり、ほとんど戦わなかったそうです。
邸内から響いてくる不穏な音に、義教は「何の音だ」と尋ねました。隣席にいた正親町三条実雅は「雷鳴では」と答えます。誤解したのも無理はありません。前日から雨が降り続いていたのです。
部屋の障子が開き、甲冑姿の武士が次々と踊り入ってきました。赤松家臣・安積行秀(あさかゆきひで)があっと驚く義教の首を飛ばします。一瞬の出来事でした。
隣席にいた正親町三条実雅は慌てて、近くにあった献上品の太刀を抜いて身を守ろうとしますが、耳のあたりを斬りつけられて気絶してしまいます。同じ部屋にいた近習の山名熙貴(やまなひろたか:?~1441)と細川持春(ほそかわもちはる:1400~1466)は必死に応戦しますが、熙貴は討ち死にし、持春は片腕を切り落とされる重傷を負います。
このとき、諸大名や御相伴衆(宴席などで将軍に随行する役割の武将)は隣の間に控えていました。皆は急いで将軍の部屋にやって来ましたが、既に将軍は討たれた後でした。
あろうことか有力守護のほとんど、つまり管領・細川持之、侍所所司・山名持豊、畠山持永、一色教親、赤松貞村といった面々は一太刀も交えず、義教の死体を放置したまま逃亡してしまいます。
義教のために命を懸けて戦ったのは、御相伴衆の京極高数と大内持世でした。彼ら2人は激しく応戦して赤松方に斬られ、数日後に死亡しました。特に大内持世は義教のひいきのおかげで番狂わせ的に家督を継承できた人物だったので、義教への忠誠心は人一倍だったでしょう。
この将軍殺害計画に加担していたのは、赤松満祐・教康父子のほか、満祐の弟に当たる義雅(よしまさ:1397~1441)・則繁(のりしげ:1400~1448)らでした。彼らは自らの宿舎に放火した上で、義教の首を持って領国の播磨へと落ち延びていきました。ただし赤松一族の中でも、分家筋で義教側近だった満政・貞村は計画に加わっておらず、京に留まって幕閣と善後策を話し合います。
将軍を失った幕閣たちは呆然とし、赤松を直ちに追撃しようという者もいませんでした。伏見宮貞成親王は、諸大名(特に管領細川持之)が赤松と共犯関係にあったかもしれないと疑いつつ、
「自業自得の果て、果たして無力の事か。将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かざる事なり」
と記しました。あれだけお世話になった義教について、殺されたのは自業自得だと記しているのです。恐怖から解放されてつい筆が滑ったのでしょう。
貞成親王の日記が面白すぎます。洛中に居館も作ってもらい、崇光流VS後光厳流の対立に際してもあれだけ支援してくれたのに、「天魔の所行」「万人恐怖」「自業自得の果て」などと記しているんです。
