日本人の物語00687【鎌倉中期】文永の役 博多の戦い
文永11(1274)年10月20日の朝、元軍は博多の早良郡(福岡市早良区)に上陸し、そこから約3km東にある赤坂(福岡市中央区)を占領し、陣を布きました。
これを迎え討つ日本軍の総大将は、少弐資能の三男・景資(かげすけ:1246~1285)です。赤坂は馬にとって足場の悪い地なので、景資は赤坂を襲撃するのではなく、敵を息浜(おきのはま:福岡市西区)で迎撃しようと待ち構えていました。
ところが景資の意に反して、肥後の御家人・菊池武房(きくちたけふさ:1245~1285)率いる軍勢が赤坂の元軍を襲撃してこれを撃破し、麁原山(そはらやま:福岡市早良区)へと元軍を敗走させました。
この麁原にひしめき合っていた元軍を攻撃したのが、同じく肥後の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが:1246~1314)でした。竹崎勢の郎党の藤源太資光(とうげんたすけみつ)は
「味方は続いてやって来るはずです。お待ちになって、戦功の証人を立ててから合戦をなされよ」
と提案します。証人がいないまま合戦で戦功を挙げたとしても、恩賞をもらえないと主張したのです。しかし竹崎季長は
「弓箭の道は先駆けを以って賞となす。ただ駆けよ」
と叫び、真っ先に元軍に突っ込んでいきました。
竹崎季長軍は元軍の矢を受けて季長以下3騎が負傷しつつも善戦します。そこに後続の肥前の御家人・白石通泰(しろいしみちやす)の軍がやって来て混戦となり、元軍は百道原(ももちはら:福岡市早良区)まで敗走していきました。
さらに百道原への追撃を行ったのが、福田兼重(ふくだかねしげ)、日田永基(ひたながもと)らです。彼らは元軍を大いに破り、元軍は相当数の死傷者を出したといいます。
さらに百道原の戦いでは、総大将・少弐景資の軍が元軍の副司令官・劉復亨に矢を命中させたとの記録があります。劉復亨の負傷は、少弐景資側の史料と元側の史料とに共通して書かれていますので史実でしょう。副司令官が負傷するとは、元軍にとって相当な苦戦だったことが分かります。
対馬・壱岐では数の上で絶対有利な戦いを進めていた元軍でしたが、博多では赤坂、麁原山、百道原と三度に渡って退却を余儀なくされました。それだけ御家人たちの奮闘がすさまじかったのでしょう。
さて、御家人たちの奮戦は相当に効果を上げたと考えられますが、博多の戦いで御家人たちがどの程度苦戦したのか、異説もあるのです。
