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日本人の物語00018【旧石器】第2の岩宿、座散乱木遺跡

 昭和49(1974)年。座散乱木に連れて来られた鎌田が、藤村が指した場所を掘り始めると、まもなく旧石器が顔を出しました。鎌田にとって、こんなに簡単に石器を掘り当てたのは初めての体験であり、藤村と手を取り合って喜びました。
「あのときは本当に感動した」と語っていた鎌田ですが、事件発覚後は
「いま考えてみると、初めから埋められていたものだったと思う」
と述懐しています。
 藤村の発掘成果に驚いた鎌田は、藤村を次々と知人に紹介します。鎌田の紹介によって、藤村は、東北大学の若手研究者であった藤沼邦彦や岡村道雄と知り合います。「宮城県考古展」で藤沼から説明を受けたというエピソードは、前述したように後付けで生まれたもので、藤村と藤沼が出会ったのはこれが初めてなのでしょう。岡村道雄は、藤村に案内された座散乱木遺跡に衝撃を受け、本格的な調査を開始することになります。
 この頃、岡村は「前期旧石器時代には斜軸尖頭器(しゃじくせんとうき)と呼ばれる石器が使われていたはずだ」との仮説を提唱し、それを証明するべく県内の遺跡発掘に取り掛かっていたところでした。
 昭和50(1975)年。かつて対立関係にあった大学所属の研究者と無所属の研究者とを横断する組織として、「石器文化談話会」なるものが結成されました。発起人は藤沼邦彦、岡村道雄、鎌田俊昭らです。藤村も参加していたのですが、まだ発掘を始めたばかりで経験が浅いため、発起人として名前が載ることはありませんでした。藤村はこのことにひどく不満を漏らしていたといいます。藤村の名誉欲はこの頃から早くも旺盛だったようです。
 昭和51(1976)年。座散乱木で藤村が縄文時代の動物形土製品を発見します。
 さらに昭和56(1981)年10月。座散乱木で第3次発掘調査が行われたとき、劇的な発見がありました。調査8日目までは何も出土しなかったのに、9日目、藤村が合流すると、僅か5分後に石器が発見されたというのです。地層は4万数千年前。大分県早水台遺跡とは異なり、明らかな人工石。しかも岡村の主張するとおりの斜軸尖頭器でした。
 4万数千年前といえば、ホモ・サピエンスよりも前の人類のはずです。「原人や旧人がこんなきれいな石器を作れるのか」と疑問を抱く者もいたのですが、芹沢が「実際出たのだから信じるしかないだろう」と述べ、反対論は封殺されました。このとき芹沢が述べたコメントが、「出土したものはどんなに不思議でも無批判に信じる」という風潮となって、長年、旧石器研究を縛ることとなりました。旧石器捏造事件は藤村が起こしたものですが、その背景には芹沢の存在が大きく関わっているわけですね。
 4万数千年前の地層から石器が出土した事実をもって、岡村は調査報告書に「論争はここに決着した」と力強く記載しました。こうして、前期旧石器時代は確かに存在したということになりました。その証拠となった座散乱木遺跡は、平成9(1997)年に国史跡に指定され、「第二の岩宿」と呼ばれるようになったのです。

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