見出し画像

日本人の物語01650【室町/西国/六角征伐】山城国一揆

大河ドラマ「花の乱」の終盤の盛り上がりが山城国一揆でした。

 宇治川を境に北を政長が、南を義就が支配する山城国の両畠山の戦いはなかなか終わりません。文明16(1484)年6月には宇治で合戦したものの決着がつきません。義就軍を討伐できる見込みがないため、山城守護のなり手も見つからず、9月には山城国は幕府直轄地となりました。その代官に任命されたのは政所執事の伊勢貞宗でした。
 守護と代官は何が違うかというと、守護はその領国内の年貢を徴収したら自分のものにできるのに対し、代官はあくまで将軍から委託されて年貢徴収権を行使するだけであり、徴収した年貢は将軍家のものになります。また、守護に就任したら自らの領国なので逆賊・畠山義就を自分の力で討伐する必要があるのに対し、代官であれば討伐軍を自ら編成する必要はなく、将軍の判断と責任において討伐することになります。そもそも伊勢家は武士とはいえども財務官僚ですから、独自の武力はほとんど持っていなかったようです。
 文明17(1485)年7月、南側の水主城(みずしじょう:京都府城陽市)の国人・斎藤彦次郎(さいとうひこじろう)が突然政長方に寝返るという事件がありました。義就が山城南部を統治するための奉行3人を任命し、寺社本所領の保護を図ろうとしたことが、寺社領の押領で食いつないできた彦次郎には我慢ならなかったものとみられます。これ以降、水主城をめぐって数ヶ月の戦闘が続き、両畠山の軍勢は近傍から米を徴発して田畑を荒らしていきました。
 両畠山の戦いで疲弊した国人たちは、怒りを爆発させました。彼らは12月11日、平等院に集まって両軍に強気な3箇条の通告を行いました。
・今後、両畠山は山城国に入るべからず。
・各荘園は、従来通りの支配関係に復元せよ。
・新たな関所は一切建てるべからず。
 とても両畠山が応じるとは思えませんが、国人たちの武力は予想以上に強く、12月17日までに実力によって両軍を山城国から追い出してしまいました。
 これ以降、国人たちの「三十六人衆」が自治を行いました。文明18(1486)年2月13日には三十六人衆が平等院に集まって「国中掟法」を定めたとの記録があります。どんな法なのか分かっていませんが、自らを縛る法を自らで決める、日本における自治組織の最初の例といえるでしょう。この自治は、永正5(1508)年に大内義興(おおうちよしおき:1477~1529)が山城守護に任じられるまで23年間も続きます。
 とはいえ、彼らの自治には限界もあったようです。文明18(1486)年5月26日には伊勢貞宗の嫡男・貞陸(さだみち:1463~1521)が山城守護に補任されたのですが、貞陸は三十六人衆に対して一定の自治権を認めつつ、必要に応じて守護役の徴収(つまり行政目的の人出し)を国人達に求め、国人側がこれに応じる場合もありました。政府から完全に独立したものではなく、政府とつかず離れずの関係を保ったのです。

農民が畠山軍に勝るとは意外です。やはり人数で勝ったのでしょうかね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集