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日本人の物語00618【鎌倉前期】宮将軍擁立工作

 建保6(1218)年2月4日、北条政子は熊野参詣のため、弟の時房を連れて鎌倉を出発しました。しかし真の目的は熊野参詣を終えた後の上洛にありました。
 『愚管抄』によると、京に滞在した政子は後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子(ふじわらのかねこ:1155~1229)と会談し、
「子がない実朝の後継将軍として、後鳥羽上皇の皇子を東下させてほしい」
と依頼したといいます。依頼を聞いた兼子は、後鳥羽上皇の子から、自らが養母として養育している頼仁親王(よりひとしんのう:1201~1264)を将軍として下向させようとの考えを示しました。
 さて、これは少々不思議なお話です。実朝はまだ25歳で、まだまだ子を産む可能性はあるのに、実朝本人だけでなく政子も、
「実朝にもはや子はできないだろう」
と考えているようです。実朝はそれほど病弱だったのでしょうか。
 また、頼家の息子4人のうち、長男・一幡と三男・栄実は殺されましたが、まだ次男・公暁と四男・禅暁は健在です。頼朝・政子の孫が2人生きているのに、わざわざ血のつながりのない皇族から征夷大将軍を呼んでくるとは不思議な発想です。北条家としては、頼家を殺害した以上、その子たちに将軍職を継がせる選択肢は思案の外だったのでしょうか。
 この時点で皇子下向の交渉を行っていたということは、政子・義時にとって源氏の血を引く将軍はもはや必要なくなっていたと考えられます。和田合戦において将軍実朝は何らのリーダーシップをも発揮できず、全ては北条一族の下知によって差配されました。この一件により御家人の統率に自信を持った政子・義時は、権威だけを持ち実権を持たない将軍を推戴して、自らが実質的なトップに立とうと考えたのかもしれません。
 さて、後鳥羽上皇の子を将軍に推戴するというのは、朝廷にとっても幕府にとっても一長一短となる選択です。幕府からみれば、後鳥羽上皇の権威をもって東国を支配できる上、いざとなれば皇子を人質として朝廷と対峙することができます。一方、後鳥羽上皇からみれば、我が子が将軍である以上、幕府を意のままにコントロールできる可能性があります。
 メリットとデメリットのいずれが上回るのか、何とも難しいところですが、兼子からこのアイデアを聞いた後鳥羽上皇は
「皇子を下向させようとは思うが、今すぐのことではない」
と述べ、慎重な態度を取りました。とりあえずは継続して検討しようということでしょう。

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