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日本人の物語00379【平安後期】後三年の役 金沢柵の逸話

 金沢柵の戦いでは、3つの有名なエピソードが残っています。
 一つ目は、義家が雁の群れが列を乱していることに気づき、敵の伏兵を見破ったという話です。これは、義家が大江匡房から学んだ兵法によるものでした。
 かつて、大江匡房が源義家を評して
「すぐれた武将だが兵法を知らない」
と述べたことがありました。これを聞いた義家はすぐに大江匡房に師事して兵法を学びました。
 義家のように実戦を経てきた戦士から見ると、大江匡房は一介の学者に過ぎません。「兵法を知らない」などと品評されたら、怒るか一笑に付すのが普通だと思うのに、義家はあえて匡房に頭を下げて教えを乞うたのです。そしてそこで得た知識を、こうして実戦でも活用することになったわけです。
 ちなみに「雁の群れが列を乱すと、そこに伏兵がいる」という理論は、後に平治の乱において悪源太義平が隠れていたところを見つけられた際にも用いられています。
 二つ目は、義家配下の鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)のエピソードです。
 景政は敵将・鳥海弥三郎(とりうみやさぶろう)に目を射られてしまいます。味方の三浦為次(みうらためつぐ)が景政に刺さった矢を抜くために、顔を踏みつけて矢を引っ張ろうとしたところ、景政は
「敵に射られて死ぬのは名誉だが、生きながら顔を踏まれるのは恥辱である」
と言って為次を刺そうとしました。為次は景政の豪胆さに驚きながら、顔を踏まずに矢を抜いてあげたというのです。この鎌倉権五郎景政の態度は、後世の武士たちに
「これぞ理想の武士だ」
として語り草となりました。
 この鎌倉権五郎の子孫には、梶原氏、大庭氏、長尾氏といった有名な武士が登場してくることになります。
 三つ目は、義家の行った論功行賞についてのエピソードです。
 義家は、毎日戦闘が終わると「剛の座」「臆の座」という椅子を設けて、その日よく戦った者を「剛の座」に座らせ、成果を上げなかった者を「臆の座」に座らせました。これにより、多くの者が剛の座を目指して翌日からより積極的に戦闘に当たったといいます。
 義家なりに工夫されたマネジメント手法というわけですね。

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