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日本人の物語00152【古墳】27代安閑天皇*

 継体天皇25(531)年2月7日。継体天皇は崩御しました。九州を本拠とした磐井の反乱に苦しみ、朝鮮経営にも苦しんだ治世でした。
 さて、継体天皇が葬られたとされる陵について、大きく2つの説があります。
 まず、宮内庁が公式に定めている陵が大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやまこふん)です。太田茶臼山古墳は226メートルものサイズで、大阪府北部では最大規模のものです。
 平安時代の史書などを根拠に、宮内庁が明治時代に定めたものですが、考古学者たちはこれを継体天皇の墓とすることに疑問を呈しています。というのも、出土埴輪の形態などから5世紀中頃の築造と推定されるのですが、一方で継体天皇の没年は6世紀であるため、宮内庁の指定は誤っている可能性が高いのです。
 考古学者たちが継体天皇陵であると考えているのが、大阪府高槻市の今城塚古墳(いましろづかこふん)です。今城塚古墳は太田茶臼山古墳から1.3キロメートル離れたところに位置し、大きさは190メートルです。築造は6世紀とみられ、継体天皇の没年と一致することから、こちらが真の継体天皇陵とみられます。
 今城塚古墳の近くには、埴輪を製造した窯の跡とみられるものが出土し、「新池遺跡」と名付けられました。
 宮内庁は、歴代天皇の陵墓とみられるものを指定し管理することで、陵の静謐を守ってきました。静謐を守るとはどういうことかというと、考古学者たちが発掘調査をしたいと申請してもそれを拒絶して来たという意味です。ところが不思議なことに、宮内庁は明治時代に指定した太田茶臼山古墳の方を後生大事に管理するばかりで、今城塚古墳を放置しているため、高槻市教育委員会は今城塚古墳を何らの制約なしに発掘しているのです。まるで本末転倒です。
 今城塚古墳の傍には、「高槻市立今城塚古代歴史館」が建てられ、出土した埴輪や副葬品が展示されています。
 埴輪を製造した新池遺跡の近くは大規模なマンション開発が進んでしまいましたが、窯の跡は保存され、そこには「史跡新池ハニワ工場公園」が整備されました。現在、復元された窯を使って埴輪を作る体験会が定期的に開催されています。
 継体天皇の次に即位したのは、長子の第27代安閑天皇(466~536)です。安閑天皇の事績は何も記されていません。安閑天皇4(536)年12月17日に子がないまま崩御したとだけ記されています。

今城塚古墳のそばに復元された埴輪たち。そばには高槻市が建てた博物館もある。 2026年5月3日撮影。
今城塚古墳から車で5分くらいのところにある太田茶臼山古墳。こちらは宮内庁が管理している。2022年5月29日撮影。

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