日本人の物語01477【室町/西国/大乱前夜】長禄の変 勾玉奪回
以前、兵庫県高砂市に旅行した際、レストランで順番待ち表に名前を書いたところ、私の前に待っていた人の名前が「コウヅキ」でした。上月家は赤松家臣で現在の兵庫県佐用町を拠点とする家柄ですが、その子孫の方なのでしょうか。
自天王・忠義王の居場所が分かれば、そのいずれかに神爾(勾玉)があるのは明らかです。小谷与次から報告を受けた赤松の遺臣たちは、長禄元(1457)年12月2日未明、北山と河野の2ヶ所に同時に討ち入りました。
北山に討ち入ったのは、丹生屋帯刀左衛門(にゅうのやたてわきざえもん)と、その弟の四郎左衛門(しろうざえもん)でした。兄の帯刀左衛門が自天王を見つけてその首を取り、見事勾玉を見つけ出しましたが、その直後に後南朝方の役人たちが丹生屋兄弟を追跡し、伯母谷(奈良県川上村)で追いついて兄弟を討ち取り、勾玉と自天王の首を取り返します。
同じ頃、上月満吉(こうづきみつよし)らが小谷与次の案内を受けながら河野に押し入り、忠義王を見つけ出してその首を討ちました。上月満吉は悲壮な覚悟をもって家族と別れを告げてこの作戦に参加したとの記録があり、そうまでして赤松再興を望んでいたのでしょう。
どうも赤松遺臣らは勾玉を奪回するのみならず、兄弟の首を取ることも目的にしていたように見えます。勾玉奪回だけでは後南朝が再びテロを起こすおそれがある一方、南朝皇族がいなくなってしまえばもはや擁立すべき相手もおらず、テロを起こす動機もなくなると考えたのでしょう。兄弟の首は吉野で荼毘に付されましたが、この兄弟の命が失われたことで後南朝は致命的な打撃を受けました。一方、赤松家臣団にとっては、兄弟は討てたものの勾玉奪回は成功しなかったわけで、作戦は失敗に終わったといって良いでしょう。
二度目の作戦が決行されたのは、長禄2(1458)年3月のことです。小川弘光(おがわひろみつ)が再び後南朝の宮殿に討ち入り、勾玉を奪還して帰ってきたのです。
小川弘光は勾玉を大和国の有力者である越智家栄のもとに持参し、奪還成功を報告しました。越智家栄が幕府・朝廷への報告を仲介し、4月13日には勾玉を朝廷に返還することが決まりました。
さて、小川弘光なる人物はどうも大和の国人であって赤松家臣ではないようです。してみると、赤松遺臣たちは手柄を横取りされたといっても良い状況で、赤松家の再興は許されるのか、微妙な状況です。
しかし幕府の使者が越智家栄のもとにやって来て、意外なことを告げました。越智氏に1ヶ所、赤松遺臣に2ヶ所の所領を与えるというのです。どうやら幕府は
「勾玉の奪回に成功したのは赤松遺臣たちだ」
と勘違いしているようです。いかにも揉めそうな状況です。
後南朝の皇族は容赦なく殺されるんですよね。幕府方からは皇族とみなされていないのかもしれません。
