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日本人の物語01155【南北朝後期】貞治の変 斯波高経包囲網

仕事が忙しくなるとこの連載も滞ることになると思います。そのような事態に備えてなるべく先まで書いておいて貯金を増やしておかねばならないのですが、貯金するにも限界がありますよね。

 一度裏切った幕府高官たちが次々と投降してくれていますが、そんな中、逆の動きもありました。正平21/貞治5(1366)年8月に、将軍義詮が斯波高経の追討を決めたのです。これを「貞治の変」といいます。そうなった経緯について述べていきましょう。
 斯波高経は、一度は南朝方に寝返ったものの義詮の再三に渡る和睦申し入れに折れて、息子の義将を管領とすることに合意した人物です。また、越前国を拠点としており越前守護を長年務めています。
 ところが高経は、領国内にある興福寺領について、寺の取り分を十分に残すことなく年貢を徴発してしまうので、興福寺側とトラブルを起こしていました。
 興福寺の僧たちは、
「このままでは行事の開催すらおぼつかない。高経による押領をやめさせてほしい」
と幕府に訴えましたが、実力者の高経に注意できる者がおらず、捨て置かれてしまいます。
 そこで僧たちは、春日大社の神木を京の高経邸の前に投げ捨てるという暴挙に出ました。神木が館の前にあると高経は出かけることもできなくなります。春日神木はこのように興福寺がデモを行う際にたびたび用いられ、数年後にはより深刻な事件(春日神木事件)を引き起こすこととなります。
 このときは神木の投げ捨てを見かねた後光厳天皇が、使者を派遣して神木を丁重に移動させましたが、天皇がここまで心配しているのに、高経は自身の行動を変えようとしません。
 正平19/貞治3(1364)年5月17日、神の使いとされる大きな鹿2頭が洛中を走り回る事件が起こります。さらに21日には僧の生首が洛中を転がっていき、やがて見えなくなりました。28日には洛中の子供が突然神がかり、
「人や勝つ 神や負くると しばしまて 三笠の山の あらんかぎりは」
と詠みました。人(斯波高経)が神(興福寺と春日大社)に勝利したかのように見えるかもしれないが、少し待てばやがて神が勝利するはずだというのです。
 これだけの怪奇現象が起きているのに、斯波高経はなおも無視し続けます。興福寺と春日大社の資金不足は進み、さらに荒廃していきます。
 誰もが「斯波高経に天罰が下るはずだ」と思っていたそのとき、10月3日に高経邸で火事が発生しました。皆は
「これこそ春日明神の祟りだろう」
と噂し合います。
 ところが高経は何らショックを受けた様子も見せず、三条高倉に新しい屋敷を建てて住み始めます。幕府の重要政務を任され、毎日宴会を催しているのも以前から変わりません。人々は次こそ天罰を下してほしいと待ち望むようになりました。

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