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日本人の物語01366【室町/義教期】上皇志願

私の大好きな貞成親王の話題です。

 話を再び、伏見宮貞成親王の周辺に戻します。
 永享3(1431)年8月4日。貞成親王は石清水八幡宮に願文を奉納しました。そこには
「いにしへの ためしあればと 祈るてむ 我が理を 哀れとも知れ」
との歌が記されていました。つまり
「何らかの前例があってほしいと祈る私の気持ちをどうか知ってほしい」
というわけですが、この前例とは何を指しているのでしょうか。
 実はこのとき、貞成親王は太上天皇(上皇)の号を欲しがっていました。それは、朝廷内で懸案となっていた「崇光・後光厳兄弟のうちどちらの系統が皇位を継承するか」という話題と深く関係しています。
 第四次京都合戦において崇光が虜囚となり、その弟の後光厳が即位した経緯については既に述べました。その後崇光は釈放されたのですが、これ以降、崇光・後光厳いずれの子孫が皇位を継承していくかで争いが起きました。結局、後光厳の子の後円融、さらにその子の後小松、そのまた子の称光と皇位が継承されていきましたが、称光天皇が子を持たないまま崩御したので、皇位は崇光の孫である伏見宮貞成親王の子・後花園に移ったのです。
 この後花園天皇は貞成親王の実子であるものの、後小松上皇の猶子(養子)となった上で即位しました。そのため、後花園天皇は血縁の上では崇光流であるものの、形の上では後光厳流なのです。そこで、後花園天皇をどちらの系統とみなすべきか、その解釈をめぐる争いが起こるわけです。言い換えると、養父たる後小松上皇(後光厳流)と実父たる貞成親王(崇光流)のうち、どちらが天皇の父に当たるかをめぐる対立です。
 義教は、大嘗会の御禊行幸の見物に後小松上皇を差し置いて貞成親王を誘うなど、明らかに崇光流を重視していました。恐らく後小松上皇が将軍就任を妨害してきたことを恨んでいたためでしょう。
 貞成親王としても、せっかく義教に気に入られているこの情勢を活かして、天皇の父としての立場を確定させておきたいところであり、そのために太上天皇(上皇)の号を欲しがったのです。本来、上皇号は天皇を引退した人に与えられる称号ですが、即位したことのない貞成親王がもし上皇を名乗ることができれば、自分が天皇の父として重視されていることになり、崇光流が後光厳流に勝利することになるのです。前例があればいいなというのは、つまり「即位したことのない人物が上皇となった例があってほしい」ということです。
 前例としては一応、後高倉法皇の例(00639回参照)があるのですが、前例があるからといって朝廷内の実力者たる後小松上皇が上皇号を許すはずがありません。貞成親王の願いが聞き届けられるのはだいぶ後のことになります。

即位したことのない人物に「法皇」「上皇」の号が許された例がちゃんとあるのがすごいですね。

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