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日本人の物語01674【室町/西国/六角征伐】畠山義豊討伐

六角征伐はほぼ終わりましたが、もうしばらくはこのチャプタータイトルで書き続けます。

 これまで述べてきたとおり、義材は六角高頼を近江から追放し、細川政元を近江守護に、細川家臣の安富元家を近江守護代に任じました。対立しているはずの政元を近江守護に据えた狙いは何だったのでしょうか。
 一つには、自身の将軍就任を快く思っていない政元に近江守護という旨味を与え、懐柔しようとした可能性があります。そしてもう一つは、「未だに屈服していない六角高頼と引き続き戦う」という損な役割を、気に入らない政元に押し付けたという可能性です。事実、六角征伐終了後、義材と政元の関係はむしろ悪化したようです。
 義材はそんな政元には目もくれず、続いて畠山政長支援に乗り出します。明応2(1493)年2月には、畠山政長・尚順父子の申請を認め、畠山義豊追討令を出しました。さらに高屋城(大阪府羽曳野市)にいる義豊を自ら追討するべく、河内へと出陣していきました。政元はこの出征にはあくまで反対し、京にとどまりました。
 六角征伐も諸将にとって実利のない戦いでしたが、畠山義豊征伐はそれに輪をかけて無意味なものでした。河内は元々畠山政長の領地であり、そこに巣食う反逆人の義豊を征伐したからといって、河内の所領が諸将に開放されるわけではないのです。諸将は「政長の所領なんだから、政長が一人で何とかしろ」と思っていたに違いありません。ましてこの頃、政元の領地である丹波国で黒井城(兵庫県丹波市)を中心とした一揆が発生しており、政元はその鎮圧に集中しなければなりませんでした。河内に興味はなかったでしょう。
 2月24日、義材率いる幕府軍は正覚寺(大阪市平野区)に布陣し、義豊が籠もる高屋城を包囲しましたが、なかなか落ちず一進一退の攻防が続きました。
 こうして義材が義豊討伐に注力している間に、政元は密かにクーデターの準備を進めていました。
 義材が六角征伐・畠山義豊征伐といった評判の悪い政策を次々実施することに、政元は苛立ちを募らせていました。また、義材は斯波義寛からも「朝倉貞景を討っていただきたい」との依頼を受けており、これも受け入れていたので、義材が将軍のままではあちこちの戦線に駆り出されることとなります。そこで政元は、自らが傀儡として操れる将軍にすげ替えようと考え始めます。
 また義材は、阿波細川氏の当主・之勝に偏諱を与えて「細川義春」と名乗らせ、その義春の邸宅に住み始めていました。かつて8代将軍義政が細川勝元の邸宅に住んだのと同じで、これはつまり義材が政元を廃し、義春に細川当主の座を与えようとしているように見えます。政元にとっては捨て置けない状況です。
 義材不在の時期を狙って、政元のクーデターがいよいよ実行されます。

政元の肩を持つつもりはありませんが、一方で義材の将軍としての才覚にも大いに問題があったと思われます。

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