日本人の物語01138【南北朝後期】初代管領・斯波義将登場
斯波義将は「しばよしゆき」と読むのか「しばよしまさ」と読むのか分かっていません。まあ読み方はさほど重要ではないですね。
正平17/康安2(1362)年3月から9月にかけて行われた畠山討伐を一気に説明してきましたが、それと並行して起こった出来事を記すため、少々時間を遡る必要があります。
京を四たび失った幕府は、後光厳天皇をようやく京に戻すことができ、一息ついていました。とはいえ、斯波高経、山名時氏、仁木義長、細川清氏、畠山国清と高官の裏切りが続く中、幕府はさすがに危機感を抱き、どうにかして敵に降った者を幕府方に引き戻すことができないかと検討していました。
義詮は裏切り者の中でも特に斯波高経に目をつけ、引き込もうとします。斯波高経は正平6/観応2(1351)年1月、第三次京都合戦のさなかに幕府を裏切ったものの、その後は目立つ戦いをしておらず引き籠もっており、交渉すれば幕府に戻ってきてくれると考えたのでしょう。
義詮は大胆にも、いなくなった執事・細川清氏の後任に、斯波氏頼を指名しました。斯波氏頼は高経の三男である上、佐々木道誉の娘婿ですから、道誉の推薦もあったものと思われます。
しかし斯波高経は
「我が斯波家は足利一族である。執事に就任するなど恥だ」
と主張し、息子の執事就任を認めませんでした。確かに斯波家は本来、将軍をも狙える家柄ですから、執事職は役不足かもしれませんが、それだけが辞退の理由とは思えません。何でも良いから理由を付けて拒否したかったのでしょう。
義詮はそれでも我慢強く斯波高経の機嫌取りを続けていきます。今度は
「じゃあ高経が特にかわいがっている息子を執事に立てればよい」
と、まだ13歳の四男・斯波義将(しばよしゆき:1350~1410)を執事にしたいと伝えました。まだ執事として働くには幼すぎるのですが、義詮は
「幼いうちは父の高経が後見を務めればよい」
と言って、なんと裏切り者の斯波高経に幕府ナンバー2の座を与えようとしたのです。あまりの大盤振る舞いです。
これにはさすがの高経も同意して、正平17/康安2(1362)年7月23日、執事の座に斯波義将が就くこととなりました。これを知った兄の氏頼は、父を恨んで密かに出家し、そのまま行方知らずとなりました。その没年すら明らかではありません。
偶然によって政治の表舞台に現れた斯波義将は、執事就任時点では実権を父・高経に握られていましたが、高経の死後は幕政の最高権力者として君臨することとなります。
なお、この後しばらくして、執事の権限が政務全体に及ぶようになります。これまで「執事」と呼ばれていたのが「管領」と呼ばれ始めるのはこの頃からであり、斯波義将は室町幕府の初代管領とみなされています。
