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日本人の物語00266【平安前期】藤原良房と紀名虎の争い

 この時期、藤原良房の政治的発言権がさらに大きくなって来たことを窺わせるエピソードがあります。
 文徳天皇の子・惟仁親王が生後8ヶ月で皇太子となったことは既に述べましたね。外祖父・良房の計らいによるものです。
 その惟仁親王とは文徳天皇の四男に当たります。つまり兄3人を差し置いて皇太子となったわけです。このことが朝廷内で物議を醸さないわけがありません。
 特に文徳天皇の長男に当たる惟喬親王(これたかしんのう:844~897)は、成長するにつれて才覚を発揮し始め、貴族たちからの評判も上々でした。文徳天皇としても、四男を皇太子に据えたものの、
「やはり惟喬を即位させることも考えてよいのでは」
と考え始めました。皇太子を替えるというのです。
 しかし、文徳天皇のこの考えを止めたのが、側近の源信(みなもとのまこと:810~869)でした。源信とは嵯峨天皇の子で、臣籍降下し源姓を名乗っていた人物です。
 源信が主張したのは、
「もし皇太子に罪があるならともかく、そうでないのなら替えるべきではありません」
ということでした。確かに、天皇が一度決定したことを覆すようでは、民心は離反するかもしれません。
 文徳天皇はやむなく断念しますが、その後も朝廷内で惟仁派と惟喬派の対立が尾を引いたようです。具体的には、惟仁の外祖父である藤原良房と、惟喬の外祖父である紀名虎(きのなとら:?~847)との対立です。
 これは後世の伝説なので、史実かどうかはよく分からないのですが、良房と名虎、両者とも皇太子の地位を射止められるよう祈祷師を雇って祈らせたとか、さらには競馬や相撲で勝負をしたという話まであります。
 その伝説によると、まず競馬については6対4で良房側が勝利しました。
 続いて相撲が行われるのですが、なんと身長2メートルを超える大男である紀名虎が自ら出場し、敵をバタバタと倒していきました。
 良房側が圧倒的に不利となる中、なんと良房側の祈祷僧が剣で自らの頭を切り砕き、取り出した脳を護摩に焚いて猛烈に祈ったところ、その祈りが天に通じて良房側が勝利したというのです。
 あまりに突飛な話ですし、そもそも史実では惟仁親王が誕生する嘉祥3(850)年の3年前に名虎は死去しているので、これらの逸話は後世の創作とみて良いでしょう。とはいえ、藤原氏と紀氏の間で猛烈な暗闘が繰り広げられたのは事実だろうと思われます。

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