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日本人の物語00225【奈良】鑑真来日 唐招提寺建立

 遣唐使の帰国船は、以下のとおり3つの船に分けられました。
 第1船: 藤原清河、阿倍仲麻呂ほか
 第2船: 大伴古麻呂、鑑真ほか
 第3船: 吉備真備ほか
 ところが清河の乗る第1船は、難破してベトナムに漂着しました。藤原清河と阿倍仲麻呂は帰国できないまま唐で死去してしまいます。
 一方、第2船と第3船は天平勝宝6(754)年に無事に帰国しました。こうして、鑑真は実に決心から12年を経て、ついに日本にやって来ることができたのです。
 このとき、第3船で帰国した吉備真備は、帰国後すぐ大宰少弐(九州の大宰府の高官)に任じられ、中央から遠ざけられました。藤原仲麻呂は真備が無事に帰ってきたことにがっかりしたでしょう。できれば難破して死んでほしかったと思っていたのではないでしょうか。
 来日した鑑真はさっそく、聖武上皇以下400名に菩薩戒を授けました。これによって正式な出家と認められるわけです。
 さて、もともと鑑真に期待された役割は、日本の僧たちに菩薩戒を授けることだったのですが、これが終わってしまうと、もうやらせることがなくなってしまったらしく、しばらく放って置かれてしまいました。鑑真は国禁を犯して来日してくれたわけですから、今さら唐に戻ってもらうこともできず、かといって日本でやらせる仕事もなく、政府も持て余してしまったようです。
 こういうことって今でもよくあると思うのです。社長なり幹部が「何々のためのプロジェクトを立ち上げるぞ」と言ってプロジェクトが立ち上がり、イベントか何かを1回やって、それで手詰まりになって終わってしまうわけですね。プロジェクトの看板だけがずっと継続していて負の遺産になって残ってしまうわけです。
 何か思い立ったときには、もっと先行きを考えて取り組んでいくべきだと思います。
 来日から6年が経って、鑑真の弟子たちが「これではあまりに不憫だ」と嘆願したことで、天平宝字3(759)年に唐招提寺(奈良県奈良市)が建立され、鑑真がそこの座主に就任することになります。現在、世界遺産に登録されている唐招提寺は、そんな事情で建立されたものだったのですね。
 ちなみに、鑑真から菩薩戒を受けた2年後の天平勝宝8(756)年5月2日。聖武上皇は崩御しました。大仏が完成し、菩薩戒をも受戒でき、思い残すことはなかったでしょう。
 このとき、東大寺正倉院が建てられ、聖武上皇ゆかりの品が納められました。正倉院からは美術品のほか、行政文書も大量に発見されており、今も研究が進められています。

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