日本人の物語00827【建武期】西園寺公宗の謀反 横死
西園寺公宗が出雲への護送のため自邸を出発する日になりました。公宗は妻の日野名子(ひのめいし:1310~1358)に対し、次の歌を書き送りました。
「哀れなり 日影待つまの 露の身に 思ひをかるる なでしこの花」
このとき妻の名子は妊娠中でした。子供のことを「愛児(なでしこ)」と呼びますが、公宗はやがて産まれる予定の我が子について、
「日差しを待って消えていく露のような私は、我が子への思いに引きずられるようだ」
と詠んだのです。
護送が始まろうというときに、思いもかけない悲劇が起こります。護送役の中院定平(なかのいんさだひら)が「はや(早くしろ)」と言ったのを聞いた名和長年が、これを「早く殺せ」と誤解し、そのまま公宗の首を斬り殺害してしまったのです。それも妊娠中の妻の目の前での出来事でした。妻の名子はあまりの衝撃で倒れ込んでしまい、周囲の人々に車に乗せられて家に帰されました。
その後、公宗の百ヶ日に当たる日に、子供が産まれました。後に右大臣まで昇進する西園寺実俊(さいおんじさねとし:1335~1389)です。子はすくすくと育ち、だんだん父に似てきました。名子は
「形見こそ いまはあだなれ 是なくば 忘るるときも あらましものを」
(忘れ形見の息子が産まれたことが今となっては仇となった。この子さえいなければ、忘れることもできたものを)
と詠み、悲しみました。
その後、中院定平の使者が名子を訪ねてきました。
「子が産まれたならば連れて来い」
というのです。罪人の子は殺しておこうというのでしょう。名子にはもはや応対する力は残っておらず、公宗の母に当たる昭訓門院春日局(しょうきんもんいんかすがのつぼね)が応対に出て、
「子は産まれて間もなく死にました」
と答えたところ、それ以上の追及はなかったといいます。
ちなみに日野名子といえば、『竹むきが記』という日記が有名です。仏事や子育てについての日常生活が記録されており、当時の生活を窺わせる史料として極めて高く評価されています。また、挿入される和歌には京極派の傾向がみられ、名子が高い教養人であったことを思わせます。
ただ、残念ながら夫・公宗の死の前後の記録は残っていません。日記を書くだけの気力がなかったのかもしれません。
