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日本人の物語01264【室町/義満期】第二次伊達政宗の乱と篠川公方

昨日、たまたま「きょうのわんこ」を見ると第7233回と書かれていて、「俺はこの数を超えて連載しようとしているのか……」と感じて少し無謀な気がしてきました。

 幕府が大内盛見の討伐に苦戦していた頃、奥州では平行して第二次伊達政宗の乱が起こっていました。
 応永9(1402)年4月。1年半前に降伏したはずの伊達政宗がまたもや挙兵したとの報を受けて、関東管領・上杉朝宗は息子の氏憲(うじのり:?~1417)率いる鎮圧軍を派遣しました。この朝宗・氏憲父子は「犬懸上杉氏」に分類される上杉家の庶流です。
 さて、上杉氏憲が初登場しました。氏憲は出家名の「禅秀」の方が有名かもしれません。だいぶ後で、教科書にも載っている有名な「上杉禅秀の乱」を引き起こす人物です。
 9月、上杉禅秀は陸奥赤館(福島県桑折町)を攻撃して政宗を破り、降伏に追い込みました。没落した伊達政宗は奥地の出羽高畑城(山形県高畠町)に逃げ込み、応永12(1405)年に死去します。なお、政宗は最終的には鎌倉府に敗北したわけですが、鎌倉府を敵に回す以前は長井氏を破って置賜(山形県米沢市)の領地を手に入れるなど、領土を拡大させた経緯があるため、伊達家の中興の祖とみなされています。戦国時代の伊達政宗は、この室町前期の政宗にあやかって同じ名を名乗ったのだそうです。
 第二次伊達政宗の乱は呆気なく鎮圧されたわけですが、この鎮圧に際して稲村公方満貞が活躍した記録はありません。鎌倉府が直接指揮して反乱を鎮圧したため、稲村公方の影響力は著しく低下していきました。
 なお、ここで篠川公方の足利満直(あしかがみつただ:1386~1440)についても紹介しておきましょう。
 2代鎌倉公方氏満には5人の子がいました。長男満兼は3代鎌倉公方に、四男満貞は稲村公方となりましたが、次男満直は篠川(ささかわ:福島県郡山市)に派遣され、「篠川公方」と呼ばれました。奥州は稲村公方と篠川公方が協力して統治することとなりました。
 伊達政宗と大崎詮持は、稲村・篠川両公方に対して反乱を起こしたとされてきましたが、近年の研究では
・稲村公方満貞の派遣は応永6(1399)年頃
・篠川公方満直の派遣は応永21(1414)年頃
とされ、「伊達政宗が反逆した時点では篠川公方はいなかった」と考えられています。その新説によると、稲村公方は満兼が奥州統治のために派遣したもので、篠川公方は逆に上杉禅秀が満兼に対抗するべく派遣した敵対勢力だというのです。つまり
「鎌倉公方足利満兼・稲村公方足利満貞 VS 犬懸上杉禅秀・篠川公方足利満直」
という対立軸があったというわけです。
 いわれてみれば、稲村公方のいた福島県須賀川市稲御所舘と、篠川公方のいた福島県郡山市安積町笹川高瀬とは11kmしか離れておらず、わざわざ別に設置する必要はありません。両者は対立していたとみるのが適切なようです。

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