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日本人の物語01614【室町/東国/長尾景春の乱】決戦中止

北関東の地名がやたらと登場しますね。享徳の乱における両陣営の主陣(五十子の陣と古河)は見に行ったことがあるのですが、それ以外の史跡はまだ行けていません。

 長尾景春の乱は、古河公方成氏にとって大きなチャンスでした。成氏と景春が手を組めば、上野・北武蔵あたりに布陣する上杉軍は東側の成氏軍と西側の景春軍に挟み撃ちされる格好となり、袋の鼠です。
 鉢形城の景春を叩こうと準備していた上杉方は、成氏が古河を出発してこちらに向かっていると聞いて驚き、一旦上野国内に点在するそれぞれの城に退くこととしました。道灌は長尾忠景とともに白井城に退きます。景春は富田(埼玉県本庄市)に布陣し、文明9/享徳26(1477)年7月には成氏軍と合流して、そのまま成氏に帰順してしまいました。
 このとき、上杉軍の中で成氏方に対する最前線基地となっていたのは、岩松家純が守る金山城(群馬県太田市)でした。岩松家純はやむにやまれぬ苦渋の決断だったと思われますが、成氏軍が向かってくるのを知って、そのまま成氏方へと寝返りました。かつて寛正2/享徳10(1461)年には従兄弟の岩松持国が成氏方に寝返ろうとしたのを知って殺害した家純なのに(01527回参照)、今度は自分が同様に寝返ることとなったのです。
 7月23日に家純は「神水三箇条」を定め、古河公方への忠誠を誓うための「一味神水」と呼ばれる儀式を行いました。しかしその場に家純の子・明純(あきずみ)がやって来ません。明純は古河公方に下ることを潔しとせず、金山城を出て山内上杉氏の陣中へ向かってしまったのです。家純はやむなく明純の義絶を決めました。
 9月27日、成氏は上杉軍を挑発するように滝(群馬県高崎市)までやってきました。これを見た山内上杉顕定は、道灌が止めるのを聞かず自ら白井城から出陣していきます。道灌はこのまま成氏の本軍と戦うのは不利だと考え、主君を止めたようです。
 主君顕定が出陣したため道灌もやむなくこれに従軍していましたが、10月2日、顕定・道灌が荒巻(群馬県前橋市)に布陣していたところ、景春が軍勢を引き連れて近づいてきました。道灌が慎重に決戦を避け、塩売原(群馬県前橋市)に戻って陣形を整えると、景春も警戒して一旦退却していきました。
 決戦は10月27日に起こりました。成氏・景春が滝、山内上杉顕定が片貝(群馬県前橋市)、太田道灌が荒巻に布陣し、塩売原で全軍が激突しましたが、決着がつかないまま11月14日に成氏・景春軍は撤退していきました。道灌は追撃を加えようとしましたが、長尾忠景からの援軍が遅れたため叶いませんでした。
 さらに11月27日には、成氏軍8千と上杉軍5千が広馬場(群馬県榛東村)で僅か2里を挟んで布陣し、決戦間近と思われました。道灌は
「国分(群馬県高崎市)に出て敵を背後から討つべき」
と主張しましたが、越後上杉定昌が白井城を背に正面からぶつかる作戦を主張し、こちらが通ってしまいます。
 一大決戦かと思われましたが、あいにく大雪のため中止となりました。この偶然が、両軍に和睦を考えさせるようになりました。

決戦が起こらなかったことが、享徳の乱や長尾景春の乱の知名度が高まらない理由かもしれません。

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