日本人の物語01568【室町/西国/応仁の乱】成身院光宣死す
成身院光宣は、大河ドラマ「花の乱」に登場していたらしいのですが、いまいち記憶に残っていません。
大和国の情勢を見ていきましょう。
応仁3(1469)年2月末。興福寺別当の東門院孝祐(とうもんいんこうゆう)が辞意を表明しました。大和国には守護が置かれず、興福寺がその事務を代行するのがならわしでしたから、興福寺のトップたる別当は言わば幕府の重職でもありました。
本来なら権別当(ごんのべっとう)である西南院光淳(せいなんいんこうじゅん)が別当に昇進すべきところですが、光淳は尻込みしてしまいます。別当経験者の一乗院教玄も、大乗院尋尊も、みんな辞退します。戦時下で年貢も入ってこない状況で別当に就任するのは、利益がなく負担ばかりが大きいのでしょう。
幕府はやむなく、75歳の経覚に4度目の別当就任を打診しました。これまで述べてきたとおり、成身院光宣が東軍寄りで経覚が西軍寄りですから、幕府としては西軍に近い経覚を抜擢するのは気が進まなかったでしょうが、他に適任もおらず仕方ありません。
経覚は断りましたが、3月30日には勝手に任命書が下りてしまいました。経覚は尋尊に
「強引に任命されてしまった。かくなる上は協力を願いたい」
と書き送り、尋尊も協力を約束しました。
大和に西軍寄りの別当が誕生したところで、11月20日、大和国の東軍の中心人物であった光宣が死去し、筒井順永の次男・順盛(じゅんせい)が成身院を継ぎました。ますます大和国は西軍に寄っていきます。
尋尊はその日記『大乗院寺社雑事記』において、長年に渡って興福寺の費用調達に協力してきた光宣の才覚を認めつつも、
「今度の一天大乱は、一向此の仁、計略す」
と述べ、光宣こそが応仁の乱の首謀者だと記しています。
さすがに光宣を首謀者とみるのは過大評価でしょう。尋尊は大和国からほとんど出ることなく、京から聞こえてくる噂話だけで物事を判断していますから、大和情勢が中央政治に密接に関連しているかのように見えるのでしょう。とはいえ、光宣による畠山政長擁立(01482回参照)がなければ応仁の乱は起きなかったのは事実であり、一定の影響力のある人物だったことは間違いありません。
尋尊の不安をよそに、大和国はますます西軍との関係を強固にしていきます。11月21日付けの尋尊の日記には
「南朝方の皇族兄弟(誰なのか不明)が吉野と熊野でそれぞれ蜂起し、元号も『明応』などと勝手に称し始めた」
との噂が記されています。南朝皇族と西軍の連携が本格的に始まっている模様です。
ちなみに「明応」という元号は少し後に(北朝側によって)本当に使われ始めます。
