日本人の物語01419【信広渡海】信広渡海総括
武田信広の生涯については『風雲児たち』という漫画で初めて知ったのですが、その後いろいろ調べてみると、そもそも若狭武田氏出身であること自体が怪しく思えてきたので、本稿ではいろんな説を並べて紹介する形にしました。
13世紀頃から長禄2(1458)年までの蝦夷ヶ島の歴史を見てきました。アイヌ民族の楽園であった蝦夷ヶ島が、和人の進出を受けて武田信広改め蠣崎信広の配下に入るまでです。
今回お話ししてきたストーリーは、安藤政季と武田信広の立場から見ると、
「非道な南部氏の侵略から辛くも逃れた悲劇の武将が、蝦夷ヶ島という新天地で見事に才能を開花させた成功譚」
といった捉え方ができます。事実、過去の文献ではそのような文脈で説かれているものが多くみられます。
一方でアイヌ民族の立場から見るとこれは悲劇的なストーリーといえるでしょう。和人との交易は確かに有用なものではありましたが、時に騙され搾取されてきたわけで、そこに安藤政季と武田信広という武力に優れた和人が組織的に乗り込んできたことで、一層大規模な搾取が進むようになったわけです。そして少年が殺害された事件をきっかけにコシャマインが蜂起したものの、これが鎮圧されて以降は酋長たちは信広への忠誠を誓わされました。「忠誠」とは即ち対等な交易ではなく一方的な奉仕の関係を指すわけで、それ以降はアイヌ方の毛皮は安く買い叩かれたと考えられます。
近年の研究者の間ではもはや武田信広は英雄とはみなされず、インカ帝国に対するピサロやアステカ帝国に対するコルテスのような「征服者」といったイメージで語られることが多く、逆にコシャマインがアイヌの英雄として語られることが多いようです。まあ、アイヌのみならず全国的に弱者が搾取されていた時代ではありますが。
一方、安藤氏が悲劇的な経緯を歩んできた氏族であることも間違いありません。十三湊で大いに栄えていたところに南部氏からの執拗な侵攻を受け、たびたび本拠地を脱出したり復帰したりを繰り返していたわけですが、遂に本州から逃亡して蝦夷ヶ島に行き着き、しかしそこは武田信広に任せてやはり本州に舞い戻るわけです。実際には蝦夷ヶ島も自ら出たのではなく武田信広に追い出されたのではないか、と疑いたくなりますね。
青森県では今も西側を「津軽」、東側を「南部」と呼び、津軽と南部は仲が悪いとされていますが、そのルーツは南部氏による安藤氏侵攻から始まっているのです。
この時点ではまだ渡島半島に住むアイヌ民族だけが和人と接触している段階であり、この後北海道全島に渡って和人支配が固まっていくわけですが、その経緯はまただいぶ後で取り上げることになるでしょう。
本チャプターを書く上で参考にした文献の一覧をここに掲げておきます。
長沼孝『北海道の歴史(上)』
宮崎道生『青森県の歴史』
荒井清明『新書青森県史1』
海保嶺夫『中世の蝦夷地』
白川友正『アイヌの反乱』
熊谷隆次『戦国の北奥羽南部氏』
新藤透『北海道戦国史と松前氏』
渋谷鉄五郎『秋田安東氏研究ノート』
森山嘉蔵『安東氏 下国家四百年ものがたり』
