日本人の物語01134【南北朝後期】畠山討伐 平一揆の派遣
全国あちこちで大雪が続いているようですね。皆さまご自愛ください。
将軍義詮は京に戻って間もなく、敵がいないことを確認の上、近江武佐寺に逃れていた後光厳天皇に帰洛を促しました。後光厳天皇は武佐寺を出たものの、途上の東坂本で年を越し、廷臣たちが
「一日も早くお戻りください」
と薦めたものの
「内裏は垣も格子も壊れ、御簾や畳もなくなっており、修理に時間がかかるだろう」
という話になり、そのまま東坂本に滞在し始めました。
一方、京から河内国に逃げ出した細川清氏は、楠木正儀の指摘通り京を長期間占領することに失敗したわけで、南朝内で居場所を失ってしまったようです。河内国に滞在していても、訪ねてくる者もいません。清氏は
「かつての領国である四国に渡れば、かつて付き従っていた兵たちが集まってくれるのではないか」
と思い、正平17/康安2(1362)年1月14日に小舟17艘に乗って阿波国へと移りました。阿波は細川頼之の領国ですから、これ以降清氏VS頼之の熾烈な従兄弟対決が始まることとなります。
さて、東坂本に滞在していた後光厳天皇は、3月13日にやっと京の西園寺邸に入りました。ここはかつて美しい楼閣に立派な客殿が備えられていた場所でしたが、今や雨風にさらされ寂れていました。そこで過ごしているうちにどうにか宮殿の復興も終わり、4月19日に元いた内裏へ戻ることができました。
畿内での戦いが無事に終わったところで、いよいよ東国では畠山討伐が本格化します。
畠山国清が500騎で伊豆国に逃亡し、三津城(静岡県伊豆の国市)に立て籠もっているとの情報を得た基氏は、その鎮圧のため平一揆の軍勢300騎を送り込みました。
「平一揆(へいいっき)」とは武蔵国・相模国・伊豆国の国人たちが集まった軍勢のことです。後に「一揆」といえば中央勢力に反抗する集団や、その集団による決起事件を指す言葉になりますが、当時は単に「国人たちの集団」を意味するだけの言葉で、今回のように鎌倉公方基氏に従う兵たちも「一揆」と呼ばれていたのです。
ところが平一揆の面々は伊豆国府に到着するや否や、近くの荘園に兵糧を提供せよと指示し、これを拒否した葛山備中守(かつらやまびっちゅうのかみ)とトラブルを起こし始めます。
敵が内紛を起こし始めたと聞いた畠山国清は、これはチャンスとばかり3月27日、兵を伊豆国府に派遣して合戦を始めようとします。
